蹴り飛ばしたガラスの靴_10
どうやら一過性のものだったらしい涙は、彼の家に着く前に引っ込んでしまった。タクシーは晃牙くんの正面玄関を通り越して、そのまま裏手に回る。広い駐車場となっているそこをまっすぐ走り抜けて、多分裏門であろうドアの前で停車した。
晃牙くんはお金を払い、そのまま開いたドアから滑り出る。私も降りようとしたら晃牙くんから「そこで待っとけ」と言われてしまったから大人しく座り直した。彼は私側のドアへと回り、鍵を投げて寄越す。受け取れば晃牙くんはまるで荷物を抱えるように膝裏へ腕を差し込んでゆっくりと私を持ち上げた。
車にぶつけないようにそろそろと私を運び出し、運転手さんにお礼を言って彼はそのままマンションの裏口のドアへと近づく。どうやら顔見知りの人らしく晃牙くんに「またよろしくお願いします」というとそのまま走り去ってしまった。
「知り合い?」
「たまにな、つうかてめえ重い、太っただろ」
「水吸ってるだけだもん」
「ほんとかあ?」
彼は少しかがんで「青い鍵」と一言。いくつかある鍵の中から青い印の付いた鍵を選んで鍵穴に差し込む。鍵を回してドアを開ければ、彼は再び私を持ち直してマンションの中へと入っていた。なんでこんな鍵を持っているのだろうとも思ったけど、まあ色々あるのだろうと勝手に納得することにした。
「ね、歩けるから、大丈夫だよ」
「うるせえ」
不機嫌そうにそう言い放つと彼はエレベーターの上ボタンを押す。ちょうど下にとどまっていたらしいエレベーターはすぐにドアを開いて、晃牙くんは滑り込むようにその中に入っていった。大きな鏡に映る晃牙くんと、お姫様抱っこ状態のずぶ濡れの私。側から見ると、ただただ恥ずかしい。誰にも会いませんようにとの祈りが通じたのか、幸い誰に出くわすもなく晃牙くんの部屋へとたどり着いた。
鍵を開けて中に入ると、ようやくそこで降ろしてもらえた。靴を脱ぐと思いきや晃牙くんもたたきで立ち尽くしたまま、ずぶ濡れの私をただただ見下ろしている。そして「嫌だったら言えよ」と一言呟くと、腰を引いてぎゅうと私を抱きしめた。
靴を抜きかけだったから、驚いてつま先で中敷きを蹴ってしまった。そのまま壁に当たった靴がかつん、と小さな音を響かせる。彼が持ち上げるように抱きしめるので、つま先立ちじゃないと地面に足がつかなかった。倒れないように彼の腰に腕を回すと、肯定ととったのか彼はさらに強く私を抱きしめた。
「テメェな、しょうもねえ嘘をつくんじゃねえよ」
「ヒールはちゃんと折れたもん」
「ちげえよ、髪の毛だ、もともと長かっただろ」
「高校?」
「違う、あいつらと……先輩たちと飲んだ時はまだ長かったんだろ」
晃牙君が髪の毛に擦り寄るように頬を寄せた。なんだばれてたのか。私が「知ってたの?」と問えば「写真が来てたんだよあのとき」と晃牙くんが苦々しく吐き捨てる。ということは初めからばれていたのか。晃牙くんが力を緩めてゆっくりと離れていく。私もつま先立ちからちゃんと地面に降り立ち、じっと晃牙くんを見つめた。彼はなぜか勝ち誇ったように笑い、両肩に手を置く。
「髪まで切るとか俺様のこと好きすぎんだろ、お前」
「……晃牙くん」
「なんだよ」
突然名前を呼ばれた晃牙くんは眉を寄せて私を見下ろした。ああ、そうだこの顔だ。高校時代に恋い焦がれた彼の姿がそこにはあって私は思わず表情を崩した。
「晃牙くんだって、私に会いたがってたくせに」
あの日アドニスくんが言いかけてた言葉の続きを教えてくれ他のは先輩方だった。どうやら発覚したその日、ひっきりなしにはいる連絡の中に私の名前がなかったことをとても気にしているようだとアドニスくんが羽風先輩に相談していたらしい。
知ってるんだからね私も、と言葉を続ければ晃牙くんは面食らったように一度目を丸くして、ああ、とだけ観念したようにつぶやくと、視線を合わせるように腰を下ろした。そのまま襟足を触って、ばかだな、と自嘲気味に頷く。きっとそれは私に向けてではなく、自分自身にも向けているんだろう。
「スキャンダルにならないように、ちゃんと発表しなきゃな」
「あの騒動後すぐはちょっと怒られるんじゃないかな……?」
「すぐにはしねえよ、待たせることになるけど髪が伸びる前には必ず」
「途中で間に合いそうにないから短く切ってくれーってのはなしだからね」
「てめえこそコソコソ逃げんなよ」
「逃げても迎えに来るくせに」
私の言葉に晃牙くんは吹き出したように笑い、違いねえ、と乱暴に頭を掻き撫でた。そして冷静になったように私を見下ろして「とりあえず着替えだな」と賑わしく部屋の中へ駆けていった。さすがにこの状態で上がるのも良くないだろうと立ち尽くしていると、前方から思い切りバスタオルを投げられた。
「あとこれとこれだな」
懐かしき夢ノ咲ジャージを投げられて、私はそれをジャンプして受け取る。下着までずぶ濡れだったからできればタンクトップも、とも思ったが長ジャージを羽織ればばれないだろう、いろいろと。
晃牙くんは気を使ってくれたのか、玄関と居間に続くドアを閉めて「着替えたら来いよ」と言ってくれた。たたきで着替えるなんて初めてだなあ、とずぶ濡れの服を脱ぎ捨てながら、彼のジャージに袖を通す。そういえば晃牙くんのジャージ、何度か借りたことあるけど大きかったんだっけ。所謂萌え袖という状態になったそれを見て、昔の自分を思い出す。濡れた服をまとめて持ち上げて部屋に上がると、晃牙くんはドアを開けてカゴを一つ差し出した。濡れている服をその中に入れれば「洗っとく」とおそらく洗濯機がある方へと消えていく。
以前お菓子が広げられていたローテーブルには充電器が刺さったパソコンが付けられていた。寝てると思っていたレオンはどうやらおもちゃに夢中らしく、私のことなど見向きもせずにスポンジ状の何かと戦っていた。
彼によりその場にしゃがみ込むと、レオンは私を一瞥して、咥えていたそれを地面に落とす。ボール状になっているらしいそれを投げてやれば、レオンは嬉しそうに駆け出し見事にキャッチをしてこちらに持ってきてくれた。
「深夜にドタバタさせんなよ」
「あ、ごめん」
湯気燻る飲み物をテーブルに置いて晃牙くんはパソコンの前に座る。手招きをして隣に座れば、彼はパソコンの画面をこちらに寄せてきた。映し出されているのは女性ものの靴の通販サイト。「帰るときにないと困るだろ」と彼は即日配達のタブを開いて一覧を表示させた。
「今手持ちないからお金は今度でいい?振り込もうか?」
「あ?買ってやるって言ってんだよ」
「えええ、それは悪いよ」
「悪くねえよ、お前は知らねえと思うがな、俺様はアイドルなんだぜ?」
ふと酔っ払いの先輩の耳打ちを思い出して笑えば、晃牙君は心外だというように眉を寄せた。きっと白状すればもっと怒られるだろうからとパソコンの画面に目を向ける。
「じゃあめっちゃお高いやつ買っちゃお、ガラスの靴とかないかな」
「シンデレラ気どりかよ」
「じゃあ12時回ったし帰らないと、魔法が解けちゃうね」
「解けた面じゃねえのか?ジャージだしよ」
確かに、と晃牙くんの方をみれば、思いの外近い場所に顔があった。驚いて離れるかと思いきや彼はこちらを見つめると、そのまま腰に手を回し思い切り引き寄せる。頬に晃牙くんの胸が当たる。ここからでは彼の顔はよく見えない。顔どころかパソコン画面も見ることは叶わない。
「……キスしたら、魔法解けちゃう?」
「それは白雪姫だろ」
「違うって生き返るやつじゃんそれ」
「魔女の呪いが解けるなら一緒だろ」
「ちがうよ、あの起きるやつ」
「起きる……あーあれな」
「本当に分かってる?」
「分かってるっつうの」
晃牙くんはそう言うと私の腰を両手で持ち上げて対面するように膝の上に置く。口角をあげて「試してみるか?」なんて笑うので「いいよ」と言ってみたら彼は驚くほどに真剣な表情に変わった。腰に抱いてた手を離して彼は私の目を覆うと、そのまま触れるだけのキスを落とした。そろそろと手が離れて視界が開け、目の前には真っ赤な顔の晃牙くん。
「晃牙くん」
照れ恥ずかしいのか彼は眉を寄せて「なんだよ」と言った。高校時代、用事もなく名前を呼び続けたあの頃と全く同じ顔をしていたのが面白くて笑えば、彼は「なんだよ!」と声を荒らげた。
「ううん、なんでもないよ」
そう言って抱きつけば「なんだよ」と小さく彼は吠えて包み込むように抱きしめてくれた。耳元で彼の鼓動が聞こえる。どくどくと、私と同じように早鐘を打つ心臓の音を聞きながら小さく小さく、つぶやいた。
「あのね、好きです」
知ってる。と帰ってきた言葉に私は表情を緩めた。そういえば彼はどんな小さい言葉でも聞き逃す男ではなかったと、そんなことを思い出しながら。