蹴り飛ばしたガラスの靴_06

「なんか、へこんでねえ?」

 久しぶりだね、だとかそういう言葉をすっ飛ばして出てきた彼のその言葉に、思わず胸元に目線を向けた。アドニスくんも私の出で立ちに驚いたようで「随分と変わるものだな」とぱちくり目を瞬かせた。

 あの飲み会から数日後。心配しているのか、それとも面白がっているのかわからないくらいノリノリな先輩たちに送り出された私は晃牙くんの部屋へとやってきた。身につけているのは朔間先輩たちから買ってきてもらったメンズの服。胸は潰して、随分と長かった髪を切って、わざわざそういったメイクまで施してーー髪に関してはウィッグを付けるくらいならバッサリ切っちゃいましょうと私が提案したのだーーどこからどう見てもそこらの街にいそうな青年の姿だ。正直まだ見慣れない。

「へこんでるんじゃなくて潰してるんです、失敬な」
「ま、どっちでもいいけどよ、なんかすげえ違和感あるな」
「すっごいよね、私も驚いちゃった」

 両手にぶら下げていた大量のスナック菓子やらジュースやらお酒をローテーブルにおけば、興味深そうにレオンが私の足元を回った。彼用にと買ってきたビーフジャーキーの袋を取り出して晃牙くんに投げれば、その軌跡を追うようにレオンも駆ける。じゃれつくレオンを片手で押しとどめながら「コップ出してくる」と晃牙くんは袋を片手に立ち上がった。キッチンの方へ消えていく晃牙くんと、その後ろについて回る忠犬を眺めながら私は首をかしげた。

「元気そう、だね?」
「大神は元気だぞ?」

 アドニスくんの言葉にそちらを見れば、彼もまた私の言葉に首を傾げているようだ。どういうことだろうか。キッチンの方から食器がぶつかり合う音が聞こえる。じゃれつくレオンと、まんざらでもない晃牙くんの声も聞こえる。いつも通り、まるで何事もなかったかのように流れるその空気に「元気なのは、いいことだね」と言葉を漏らす。アドニスくんも「元気なのはいいことだ」なんて律儀に返事を返して、そこらに積んであった座布団を一つ、渡してくれた。

 ちょうど晃牙くんが真ん中に来るように、少しアドニスくんと距離を離して座る。コンビニ袋から数種類のスナック菓子を取り出せば、アドニスくんがそれを一つつかみ、開けた。うっかりレオンが食べるといけないので、彼の届かないテーブルの中心にそれらを並べる。
 「学生の飲み会みたい」と私が零せばアドニスくんは笑って「俺たちにはちょうどいいんじゃないか」と一口チョコレートの袋を破いた。

「元気ないって、聞いてたの」

 耳元に手をやればかける髪がないことに気がついて、すぐに手を離す。アドニスくんはじっとその所作を見て、そしてまた机の上のお菓子に目線を向ける。

「でもよかった元気そうで、朔間先輩たちから呼び出されたときはどうしたものかと思ったけど」
「すまない、でも大神がお前のことを気にしていたのは事実だ」
「そうなの?」
「お前は大神に連絡はしなかっただろう?」

 ぴたりと空気が止まる音がした。スナック菓子を開ける手を止めてアドニスくんを見れば、彼は不思議そうな顔で私を見返している。
 言葉の響きは責め立てるようなものではなかった。しかしやはりするべきだったのだ。ぐるぐると後悔が渦巻いて、拳を強く握る。アドニスくんの一途な視線が痛い。着る前なら人の視線を遮ってくれていた前髪も、今やもう存在しない。目を伏せて、ごめん、と呟けばアドニスくんは幾度か優しく私の頭を叩いた。

「言い訳かもしれないけど、していいか迷ってたの。だって異性問題だし。それにそもそも大神くんと連絡取らなくなってしばらく経ってたし……その、しても迷惑かもしれないし」
「迷惑ということはないだろう?すまない責めているわけではない。大神もひっきりなしにかかってくる連絡に弱っていることもあった。だからお前は悪くない。ただ大神がずっとお前の」
「おいテメェ、余計なこと言うんじゃねえよ」

 ワン!と楽しそうな声とともにやってきた晃牙くんは私たちの間を割くようにトレーを机の上に置いた。驚き手を離すアドニスくんを見て、彼はふん、と一度不機嫌そうに鼻を鳴らした。そして私を見下ろしてまるでアドニスくんが撫でてくれたようにそっと手をあてがう。思い切り引っ張るでもないが質感を確かめるように彼は私の脱色したての髪の毛をつまんだ。そして指でそれを擦りながら「わざわざウィッグまでつけてよお」と彼が眉を寄せるので「地毛だよ」と教えてあげると、晃牙くんは跳ねるように髪から手を離して「はあ?!」と大声をあげた。

「て、てめ、まさか」
「勘違いしてそうだから言うけどもともとベリショだったの、まあ、会う前に整えはしたけど対して長さは変わってないよ」

 そう言いながら耳に手をかけて、慌ててその手をずらし首元へ。晃牙くんは私の言葉に眉を寄せて「……最近流行ってるからな」とぼそり呟き、私とアドニスくんの間に座った。当たり前のようにレオンがその上に乗りかかりまっすぐに机を見つめる。晃牙くんは手慣れたようにレオンを膝の上から床に降ろして、のろのろとトレーからグラスを私たちの前に置いた。

 何飲む?お茶か。ジュースだろうか。じゃあ入れるね。そんな細々とした会話を挟みながらペットボトルからグラスへと飲み物を注ぐ。それぞれ乾杯をして、一息入れたところで待っていたのは数年間で鈍く膨れ上がってしまった沈黙だった。誰も口火を切らない。聞こえるのは時計の音と、外から聞こえる車の走る音だけだった。

 夕方近い街に夕日が穏やかに降り注ぐ。開けっ放しの窓からは春らしい柔らかな風が吹き込んできた。こうして三人で集まることはままあることだけど、ここまで気まずい会は初めてかもしれない。

 沈黙を破ったのはレオンで、しばらく晃牙くんの膝の上に登ろうと格闘していたのだが、どうやら無理だと悟ったらしく、彼は無邪気に私の膝へと足をかけた。この沈黙の海などもろともせず、私の太ももの上に飛び乗った彼は、匂いをすりつけるように胸へとなんども体を擦りつけた。

「レオン、随分と人懐っこくなったね」
「てめえだって気がついてんだろ」

 ようやく出た言葉に晃牙くんはふんと鼻を鳴らす。真偽はわからないけれど、擦り寄るレオンを見るのは悪くはない。レオンの背中を撫でつつ晃牙くんを見ると、彼はじっとこちらを見つめて「短いな」と呟く。私も生まれて初めてこんなに短くしたから違和感しかないのだけれど、できるだけ平然を装って「そうかな?楽だよ」と笑う。

「朔間先輩や羽風先輩より長いよ」
「2人も、随分と驚いていたんじゃないのか?」
「驚いていたよ、朔間先輩なんて、女の子じゃぞ?!なんて失礼なこと言ってきてさあ」

 切る、と宣言した時の二人の物言いを思い出しながら笑う。二人からは随分と反対されたけど、さっぱりするからいいと突っぱねたのは私だった。だってこうもしないと会えないと思ったから。勝手に距離を開けて、今回の件も見ないふりを決め込んで、先輩方から連絡が来なければ多分もうずっと彼らとは会えなかっただろう。ショートにしたい、ついでに脱色もしようと提案して行動に移したことに後悔はひとつも、ない。

「長いのも似合ってた」

 ぼそりと晃牙くんが言う。確かに高校時代はこの髪型よりは長かったなと、私は笑う。

「今は?褒めないの?」
「男の顔して何言ってんだ、つうか化粧落とせ!なんか違和感あるんだよ!」
「鳴上を思い出すな」

 アドニスくんが笑いながらチョコレートの包みを引っ張る。膝の上のレオンが音に反応して顔を上げたが、見下ろしてなでてやれば大人しく膝の上に転がった。レオン用に買ってきたジャーキーはどうやらまだ出さないらしく、私たちだけ食べてごめんね、と思いつつも近くにあったポテチをつまむ。

「だめかな?男に見えると思うけど」
「見えるから違和感なんだろうが」
「ねえねえアドニスくん、今の私と晃牙くんどっちがイケメン?」
「あ?!俺様に決まってんだろ」

 アドニスくんは困ったように笑い「高校時代を思い出すな」とチョコレートを口の中に放り込んだ。その言葉に、そう言えばこんなくだらないことでよくアドニスくんを困らせたっけ、なんて懐かしい光景が脳裏に浮かぶ。晃牙くんを見れば、彼も丁度こちらに視線を投げていたらしく、しっかりと視線が交差してしまった。彼はひとつ瞬くと、一つ鼻で笑い「俺様の方が上だな」なんて言って、笑った。

「私かもしんないじゃん」
「作りが違うんだよ作りが」
「頭の作りは少なくとも私の方が上だけどね」
「英語は俺様の方が点数上だっただろ」
「は?数学で苦戦してた晃牙くんには言われたくありませんー」

 ぎゃあぎゃあと言い争っていると「どっちもどっちだろう」とアドニスくんが苦笑を浮かべた。確かに彼から見るとそうだったかもしれないと口をつぐめば、どうやら晃牙くんも同じことを思ったらしく悔しそうに閉口していた。
 そして一つ舌を打つと晃牙くんは目の前の色とりどりの野菜のチップスに手を伸ばした。一つつかみ口の中へ。口元でそれを揺らしながらもう一つつかみ、私の目の前に掲げた。

「食えよ」
「私チョコが食べたいなーアドニスくん」
「テメェ!」
「わかった、どのチョコだ?」

 一言喋る度に、何かを食べる度に、今まで築いてきた壁が融解される気がした。いつの間にかすやすやと眠り出したレオンを膝に載せて、懐かしい、気が緩む空気に頬を緩めた。


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