炭酸少年_03

 桜の絨毯が少しずつ茶色に変色して傍に寄せられるのが多くなってきた頃になると、この鮮やかすぎるブレザーにも慣れてきた。迷路のような校内も、ようやく一人で歩きまわれるようになってきた。でも油断は禁物、と地図を片手に移動教室を目指していると後ろから、姉御!と嬉しそうな声がした。
 喜色をたっぷり含ませた、跳ねるような声。足を止めて振り返れば廊下の少し先に、南雲くんがにこやかな笑顔を浮かべて大きく手を振っていた。暑いのだろか。ブレザーごと腕まくりをした彼は、手を振りつつ、こちらへと駆け寄ってくる。

「移動教室ッスか?」
「うんそうだよ、南雲くんは?」

 持っていた教科書と筆記用具を胸に寄せて微笑めば、南雲くんは先ほどまでの顔いっぱいの笑顔を曇らせて「えっと」と歯切れの悪い言葉を吐く。そしてふい、と視線を私からそらして、そのまま顔をうつむかせてしまった。そしてそのまま萎んだような声で「俺は、そのちょっと、職員室に、その、用事が……」と、尻切れトンボに言葉を吐く。肩を落としてふかくためいきを吐くその姿に、あ、これはもしかして何かやらかしたな、と私は肩を竦めた。悪い子ではないのだけれど、どうにもこの子は無邪気すぎる。加減を知らないのだ。

 しかし一体何をしたのだろうか。好奇心が疼いて「悪いことでもした?」と冗談めかしに笑えば、南雲くんは顔を上げて少しバツが悪そうに笑い、そして頭を掻いた。

「その、いや、すこーし、小火?いや小火ってほどじゃないですけど、その、燃えて」
「調理実習?」
「……ッス……」

 起こすつもりはなかったんですけどね。また顔を下げて口惜しそうに呟く南雲くんに、そりゃわざとだったらもっと大目玉だよ、なんて言葉を胸の内にしまう。その代わり意気消沈に肩を落としている後輩の頭を、少し背伸びして2、3回撫でてやれば、南雲くんはおずおずと顔を上げた。

 南雲鉄虎。紅月に入りたかった流星隊ブラック。四月当初は書面に並ぶ文字の情報しか知りえなかったが、交流を深めるうちに色々な側面を知ることが出来た。料理は不得意、古典も苦手、運動神経は良いが猪突猛進。少しだけ考えるのは苦手だけれど誰よりもカンが良い。そして直情的。

 調理実習で大きく火柱をあげて驚く彼の姿が脳裏に浮かんでくすり、と、小さく笑う。肩を落としてしょげかえっていた南雲くんは私のその小さな笑い声にむっと眉を寄せて「笑うことないじゃないッスか」と弱々しく言葉を吐いた。
 確かに笑うところではなかったけれど、やっぱりなんだか可愛く感じて仕方ない。前髪は焦げてないかな?と南雲くんの額をじいと眺めれば、彼は顔を赤くして「そんな見ないでほしいッス!」と純情に首を降り数歩後ずさった。

「ごめんごめん、前髪は焦げてない?大丈夫?」
「あ、そのへんは抜かりないッスよ!避けるのは得意です!」
「そっか、でも次から気をつけてね」
「ありがとうございます!」

 両足を合わせてしっかりと頭を下げ、南雲くんは「じゃあ俺はこれで」と踵を返して走り去ってしまった。小さくなる後ろ姿を見ながら、気持ちのいい子だな、と思わず感心してしまう。でも廊下を走るとまた怒られる要素が増えてしまうのではないだろうか。どうか見つかりませんように、と心の中でちいさく祈る。

 ふと外を見ればもう桜の樹も新緑を芽吹かせていた。つやつやと輝くその葉につられるように窓へと歩み寄れば、眼科には涼しそうな噴水が見える。そして噴水の主、深海先輩も。
 しばらく空を見上げていた先輩はどうやら窓から見下ろす私を見つけたらしく、じい、とこちらに目線を向けて動かなくなってしまった。恐る恐る手を降れば彼も同じように手を振って、しかしこちらを凝視し続ける。
 なにか用事があるのだろうか。窓から離れてそのまま階段をかけおりれば壁にデカデカと貼られた「廊下は走るな」の標語が目に入る。少しだけ悩んだ末、やはり私は階段を駆け下りた。ごめんなさい、急な用事かもしれないし、少しだけ悪い子になります。

 噴水は相も変わらず飛沫をあげながら辺に涼を散らしていた。濡れることも厭わず、深海先輩は嬉しそうに胸まで浸かりながら噴水の淵に顎を置いていた。私の影に気がつくと、彼はのっそりと顔を上げて微笑む。

「てんこうせいさん」
「はい転校生さんです」

 おどけて笑えば、先輩はまた顎を淵につけて、両手で淵に手をかけながら体を浮かす。光の波が太陽を受けてきらきらと輝く。先輩が動くたびに水面は揺らめき、一つの線を描いては消えていく。ざあざあと降り注ぐ水の音に耳をすませながら深海先輩と目線を合わすようにしゃがみ込んだ。深海先輩は穏やかに微笑み「ちがいましたね」と口にする。何が違うのだろうか。私が首をかしげると深海先輩はそれはもう楽しそうに口を開いた。

「あねご」
「それ呼んでるの南雲くんだけですよ」
「そうなんですか?あねごになったんですね」
「確かに、姉御に落ち着きましたね」

 というのも、初めてちゃんと話したあの日から、南雲くんは様々な名前で私を呼び止めた。時には名前で、時には「転校生」、時には「先輩」と。「先輩」に関しては他の人と混同するので即座に止めてしまったが、そういえばここ最近「姉御」以外の呼ばれ方をしていない気がする。

「あねごさん」
「深海先輩から呼ばれるとこそばゆいですね……私、後輩ですし」
「そうですか?おいしそうだとおもいますよ」
「穴子って言いたいんですかね?」
「ふふふ」

 深海先輩は淵にかけていた手を外し、側面を軽く押してゆっくりと水の上を滑る。なめらかな軌跡が水の上に広がる。噴水の水を手のひらですくうと、存外に冷たかった。噴水の水の上で手のひらを滑らせながら「風邪引いちゃいますよ」といえば「ひいちゃいますねえ」となんとものんきな声が返ってくる。

「あのこは」
「あの子?」
「ちあきに、すこしにてます」

 深海先輩は水の上に寝そべりながらただただ空を見上げていた。淡い水色の空にはぽつりぽつりと灰色の雲が広がっている。

「でもちあきとはまたべつの、ひーろーになるんでしょうね」

 夏が来る前に、もうすぐ梅雨が来る。梅雨が来たら先輩は水浴びをやめるのだろうか。まだ冷たい噴水の水をすくえば、深海先輩は嬉しそうに微笑んだ。


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