恋を塗りつぶせ!!_05

「うわ」
「どうしたんだ」
「マスカラ晃牙くんの家に置いてきたみたい」
「取りに行けばいいだろう」
「そうだよね」

 収録が終わって外に出てみれば、もう日はどっぷりと沈んでいた。仕事が終わった開放感からか、方々から聞こえる声は明るく弾んでいる。郊外にあるこのスタジオは、都会に蔓延るビル群やお店がない分、夜になるとどっぷりと暗闇に包まれる。点在する街灯が薄暗く街を照らすが、やはり都会の夜よりもずっと、暗い。
 常設されているタクシー乗り場で、共演者やクライアントの方々と一緒にタクシーを待つ。そういえば携帯の電源切りっぱなしだった。仕事の連絡がきていたらどうしよう。そう思って慌てて携帯をつければ、晃牙くんからのメッセージが一通。そこには見覚えのあるマスカラと、なぜか満面の笑みでカメラを見上げるレオンが写っていた。

 隣に立ってマフラーに首を埋めていたアドニスくんは、私の携帯を見て、そして私の目元をじいと見つめる。失敬な、朝はちゃんと睫毛は増毛させてきたぞ。主張するようにアドニスくんを見つめて瞬きをすれば、彼はふっと、小さな笑みを零した。

「まあ、今度の機会にとりにいこ」
「今日は行かないのか?」

 アドニスくんが不思議そうにこちらを見つめる。脳裏に昨晩のことがよぎり、ちくり、と心が揺れる。今日はなんとなく、会いにくい。返答に窮していると、アドニスくんは大きく息を吐いた。白く輝くそれは私の目の前で揺れて、そして消えていく。

「喧嘩をしたわけでは、ないんだな」
「うん、私が一人で気まずく思っているだけ」
「そうか、なら今日行くぞ」
「え?どこに?」
「大神の家だ、この後仕事もないだろう」

 アドニスくんはそう言い残すと踵を返しクライアントの方と話をしているマネージャーさんの元へと歩いていってしまった。私は呆然とその後ろ姿を眺めながら、いや、いやいや、と何度も心の中で首を横に振る。だから気まずいんだって。どんな顔して会えばいいかわからないんだって。彼の好意をーー半分眠りながらだけどーー目の当たりにしてしまって、本当にどうしていいかわからないんだって!

 そんなわたしの動揺などしらず、アドニスくんはマネージャーさんと二三言葉を交わしてこちらへと戻って来る。彼はしれっと「一人で帰ることは伝えた」とだけ告げて、ポケットに手を入れて身を震わせる。

「わたし、こころのじゅんび、できてない……」
「ならどこか喫茶店でも入って時間を潰すか?」
「でもマスカラだよ?別に今日取りに行かなくても困るものでもないし」
「困るだろう」

 わたしの言い訳じみた言葉を、アドニスくんが迷いもなく切り捨てる。倦むことない視線を浴びせられて、私は地面に目を落とした。だってマスカラなんて適当に買えばいいじゃない。めちゃくちゃ高いものでもないし、捨てるわけでもないし。まあ中身が残ってるのに新しいものを買うのは勿体無くはあるけれど、今日晃牙くんに会うくらいなら、ドラックストアに買いに走ったほうがずっとずっとましだと思った。
 顔は上げないまま、まるで拗ねた子供のように「困らないもん」と言えば、アドニスくんは躊躇なく「困る」と言い切った。

「何があったか知らないが、時間が経つと会い辛くなるだろう」

 アドニスくんの言葉に私は顔を上げた。彼は表情を和らげて一度大きく頷く。

「大丈夫だ、俺も一緒に行こう……ただし、入り口まで」
「うん」

 遠くのほうからヘッドライトの丸い光が見えた。何台も連なって入り口へと滑り込んでくるタクシーを見つめながら、晃牙くんのことを思い出した。今からマスカラを取りに行くだけというのに、心が早鳴る。
 もしかしたらこんな気持ち、高校生以来なのかもしれない。私は気持ちを落ち着けるように息を吐けば、アドニスくんはまた笑いを零した。


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