恋を塗りつぶせ!!_06

 静けさ湛えた部屋の中に、ピンポン、とチャイムがなる。夕食も終えて風呂でも入るかと思っていた時間。一体こんな時間に誰だよ、と晃牙が壁についてある操作パネルのボタンを押せば、気まずそうな彼女の姿が見えた。隣にはアドニスが佇んでおり、晃牙が鍵を開けてやれば、彼女はマンションへと歩みを進めるのに、なぜかアドニスはそのまま外へと引き返してしまった。なんなんだ、あいつら。無人になったエントランスの映像を眺めながら晃牙は眉を寄せた。来たなら茶でも飲んでいけばいいのに、なにか用事があったのだろうか。まあいい、明日どうせ会うし明日聞けばいいか。そう思い晃牙は戸棚からマグカップを二つ、取り出す。

 インスタントコーヒーの蓋を開けて、ティースプーン2杯ほどコップに落とす。沸かしておいたお湯を注げば、コーヒーの香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。どうせあいつのことだし長居すんだろ。特に仕事終わりの彼女はいつもより饒舌だ。コーヒー一杯では足らないだろうな、と机にカップを二つ置いて、その代わりケトルを取り上げて晃牙は台所へと向かった。水道をひねり水をケトルに注いでた頃合で、再びチャイムがなる。ケトルを片手にドアを開ければ、浮かない顔をした彼女が、そこに立っていた。

「……入れよ」

 晃牙がそういうと、うん、と萎れた声で彼女が頷く。瞳には戸惑いの色が浮かんでおり、いつもような快活さは欠片も見当たらなかった。もしかして仕事でも失敗したのだろうか。玄関のたたきから上がってこようとしない彼女の手を引けば、彼女は慌てて靴を脱ぎ捨ててマットの上に着地する。

「さっさと上がれよ、コーヒー淹れてんぞ」
「うん……」

 妙だと思った。例えば仕事で叱られてしょげかえってここに寄ることはある。そんな時の彼女は確かに家に上がることを渋る節があるのだが、一旦上がってしまったらそのまま平然と部屋まで上がりこんできたはずなのに。振り返ればまるで縫い付けられたようにその場に立ち尽くしている。泣いているのか、泣く寸前なのか。測りかねた晃牙は彼女の名を呼ぶが、顔を上げた彼女の表情からは『哀』の色がなぜか、見られなかった。

「マスカラ取りに来ただけだから、そのまま帰るよ、急に押しかけてごめんね?」

 一度黙りこくった彼女が口を開いたと思えば、そう言葉を吐き出した。交差しない視線、そわそわと心もとない仕草。ああ、そういうことか。晃牙は彼女の様子に合点がいってしまった。そして彼女に歩み寄って手首を掴む。別に普段通りの行動なのに、彼女はびくりと身を震わせて、おそるおそる晃牙を見た。

 もしかしてこいつ、ようやく意識し始めたのか?

 ターニングポイントは、もしかしたらここだったのかもしれない。いや、今までも幾つかあって、それを素通りしてきた俺たちの……違う、俺への最後の分岐点なのかもしれない。晃牙はそのまま彼女の腕をひいて、無理やりに部屋へと上がらせる。廊下を進みカーペットへと足を踏み入れて手を離せば、やはり彼女はぴたり、とその場に立ち尽くしてしまう。晃牙が洋服掛けからピンクのハンガーを手渡せば、彼女は戸惑いながらもそれを受け取る。

「いいから、コーヒー一杯でも飲んでいけよ」

 そう言いながら晃牙はケトルを所定の位置に下ろす。ボタンを押せばたちまちごうごうと音が鳴り響き、水が踊る。一杯で帰す気などさらさらないのだけれど。のろのろとコートをハンガーにかける彼女を晃牙はじっと見つめた。

 テレビもついてない。聞こえるのは水を沸かすケトルの音と、すっかり寝入ったレオンの寝息だけ。彼女はまるで息を殺すようにソファーの前で体育座りをしていた。当然コーヒーには手がつけられていない。台所から適当なスティックシュガーとミルクを掴み、机の上に並べると、彼女はこちらを見上げて、また目線を床へと落とした。晃牙はポケットからマスカラを取り出して彼女の目の前に置く。「ありがとう」と不器用な笑顔を浮かべる彼女の隣に腰を下せば、驚いたように彼女は晃牙から半歩ほど離れる。

「いつもソファーの上だった」
「俺の部屋だしどこ座っても問題ねえだろ」

 いつもなら反論の一つでも飛んできそうなものなのに、彼女は口を噤んで黙ってしまった。黙って、手を伸ばしてコーヒーをすする。いつもはミルクや砂糖や何かしら入れるのにブラックのまま口に含むので「苦っ」と彼女はすぐさまコップの縁から口を離す。そんな彼女を見つめながら晃牙は彼女に聞こえないようにか細く、ため息を吐いた。自分を意識してくれていることに悪い気はしない。でもここまで狼狽させるつもりもなかった。しかし、ここで帰らせてしまえば、なぜだろう、一生彼女はもうここへは来てくれないかもしれない。
 確信めいたそんな気持ちにやりきれなくなって、晃牙はソファに体重を預けた。ずずず、と動き出すソファに慌てて身を起こせば、どうやら彼女ももたれていたらしく、ひゃあ、と可愛らしい悲鳴を上げて晃牙と同じように身を起こした。
 そこでようやく今日初めて、彼女と視線が交差した。逸らされると思っていた目が、まっすぐに、こちらを射抜く。笑うでもなく、怒るでもなく、泣くでもなく。まるで何かを探るような、そんな視線に晃牙は彼女の頬に手を伸ばしていた。

「昨日」
「なんだよ」
「キス、しようとしてた」

 彼女の頬に手が触れる。そのまま、輪郭を包むように指を添えても、彼女が無碍にする様子はない。

「続き、するか?」

 賭けのような言葉だと晃牙は思った。嫌だったらきっと彼女はこの手を振りほどいて帰ってしまうだろう。戸惑っていたら冗談だと笑ってやろう。そう決めて彼女を見れば、彼女は茶化すでもなく怒るでもなくまっすぐ晃牙を見つめていた。そして身を乗り出し、晃牙の腿の隣に手をつく。

「……いいよ」

 自棄になっているわけではない。静かな、決意した声に思えた。彼女はそういうとそのまま晃牙の胸に飛び込んだ。突然のことに思わず倒れこみそうな衝撃をなんとか耐えて、晃牙は彼女を見下ろす。胸に顔が埋まっていて、表情が見えない。だが彼女の高鳴る心臓の音は確かに晃牙に伝わっていた。どうやらシャツを握り込んだらしく、衣服が引っ張られる感覚がする。彼女の名前を呼べば「ん」との声とともにさらに彼女は胸にすり寄った。かすかだが、震えている気がする。晃牙はできるだけ丁寧に、力を込めすぎないように彼女を抱きしめた。そして口を彼女の耳元に寄せて、甘く、囁く。

「顔あげろよ」
「……晃牙くん」
「なんだ」
「は、恥ずかしいからやっぱりまた今度にしない?」

 はあ?!と思わず耳元で大声を上げてしまったせいで、彼女はびくり、と身を震わせた。そして掴んでいたシャツを話した彼女は顔を上げてーー上げた顔はそれはもう驚くほどに真っ赤だったーーなんどもなんども首を横に振る。

「やっぱ今日はだめ!いきなり!むり!恥ずかしい!」
「今確実にその雰囲気だったじゃねえか!」
「でもだってドキドキするし!もっとゆっくりさあ!」
「学生じゃねえんだから、おいこっちむけ!背けんな!」
「やだー!ムードがない!」
「壊したのはどいつだ!」
「私だけどー!」

 やだやだ、と首を振る彼女に晃牙はため息を吐いて、そしてソファーの背もたれに体重を預ける。ずずず、とまたソファーが動くがもう気にするのも馬鹿らしい。
 晃牙が急に諦めたので不安になったのか「怒った?」と彼女が尋ねる。痛くないようにゆっくりと力を込めて彼女を抱き寄せて「怒ってねえよ」と晃牙は告げると、彼女は晃牙の胸に体重を乗せて「そっか」と呟いた。

 二人分の体重を乗せたソファーはずりずりと滑る。そのまま体を横に倒して寝転がれば、胸に頬を寄せる彼女と目があった。

「仕方ねえから今日は勘弁してやるよ」
「ごめんね、二日続けて我慢させちゃって」
「やっぱあれお前起きてたのかよ」
「うん、ごめんね」
「……つうか、彼氏でもない奴にこんなことされて嫌じゃねえの?」

 晃牙のその言葉に彼女がぴくりと反応する。おずおずと晃牙の瞳を見上げて「そのことなんだけどね」と言葉を置いた。しかし、そのあとに続く言葉はない。気恥ずかしそうに、言葉を探すように、彼女はせわしなく瞬きを繰り返しながら、晃牙の胸にすり寄った。

「私が、彼女じゃ、だめですか」

 消え入りそうな声だった。もともと小さい声の上、しりすぼみをしていくものだから、聞き間違いかと思った。晃牙はまた胸に顔をうずめ始めた彼女に、なんと返答していいかわからなかった。嬉しい?当たり前だろう?どれもしっくり来ない。だってまさか、彼女から言われるなんて、思ってもみなかったからだ。
 言葉を探していると、彼女は力強く晃牙の胸を押して、身を離した。そして嘘くさい笑顔を浮かべると何度も首を横に振って、つぶやく。「ごめんね」、と。

「うん、冗談、ちょっと言ってみたかっただけ、だから気にしないで」
「……冗談にすんじゃねえよ」

 離された距離分力を込めて、彼女を引き戻す。ぎゅうぎゅうと力強く、逃さないように何度も彼女を抱きしめて晃牙は口を開いた。彼女の驚いたような声も、自分の名前を呼ぶ声も、今だけは聞こえないふりをする。決して逃さないようにかき抱いて、晃牙は口を開いた。

「幸せにしてやるから、覚悟しろよ」

 腕を緩めれば、彼女が顔を出して一度、大きく頷いた。そして照れ臭そうに笑って、また晃牙に擦り寄る。彼女の名前を呼べば、素直に彼女は顔を上げて晃牙を見つめた。言葉はなにも続けない。ただそのまま顔を近づければ、彼女も黙って目を閉じる。
 触れた唇は想像していたよりも柔らかく、しっとりと濡れていた。ようやく彼女に触れた気がする。照れ臭そうに笑う彼女をもう一度強く抱きしめながら、晃牙は、そう思った。


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