恋を塗りつぶせ!!_03

「荒れてるな」
「え?何?肌?」
「肌……?そうだな、確かに荒れているな」
「うわ、まさか今の墓穴掘った?」
「そうかもしれない」

 衣装を身に纏い、腕組みをしながらアドニスくんは笑う。太陽が元気な午後1時過ぎ。窓から爛々と差し込む光は普段薄暗い倉庫の廊下を明るく照らす。外に設置された休憩処は夏場は暑いし冬場は寒い。コートを羽織り、常設されているドリンクサーバーのコーヒーを飲んでいると、どうやら休憩らしいアドニスくんがひょこりと顔を出した。

 外は快晴。うるさい程に青い空。寝不足な瞳には過剰すぎるその明度に目を瞬かせていると、アドニスくんが「嫌なことでもあったのか」と一言。ご機嫌は……良いとは言えないがそれを表に出した覚えはない。コーヒーを啜りながら墓穴を掘ってしまった頬をさする。

「私そんなに態度に出てた?」
「なにがだ?」
「荒れてるって話」
「ああ」

 アドニスくんは紙コップを片手にドリンクサーバーからコーヒーを落としつつ、こちらに目線を投げた。ぼととと、とコーヒーの滴る音が聞こえる。サーバーのスイッチから手を離し、スティックシュガーを2本、コップに流しながらアドニスくんは頷いた。

「いつもより、笑顔が多い」
「……いい事じゃない?」
「嘘くさくなければな」
「うっ……」

 お前は不機嫌になると笑顔が多くなるからな。アドニスくんはそう言って笑い、マドラーでコーヒーをかき混ぜる。ミルクはどうやら入れないらしく、スティックシュガーのカラと一緒にマドラーを捨てると、コップを傾けた。私もまだ湯気燻るコップを傾けてコーヒーを飲む。

 そうか、分かってしまったのか。眉にシワを寄せながらごくり、と喉を鳴らした。私が不機嫌な理由ーー不機嫌と言っても誰かに対してイライラしているというよりは自分自身のそれに対してだがーーを思い出してもう一度喉を鳴らした。

「大神か?」
「……」

 喫煙ルームが近いらしく、陽気な笑い声がささやかだがここまで聞こえてくる。冷えた廊下に悠々と伸びる湯気を眺めながら両手でカップを握る。答えない私にアドニスくんは苛立つでもなく急かすでもなく、ただただコーヒーを啜りながらじいとこちらを眺めた。

「ここのコーヒーはうまいな」

 アドニスくんがそう言ってコップを注ぎ口の下に置き、ドリンクサーバーのスイッチに手をかける。雫が垂れる音が聞こえる。コーヒーが流線を描き、そして雫となりアドニスくんのコップに落ちる。ぽたり、ぽたり。落ちきれなかった雫が二三落ちて、私はじいとそれを見つめてそして自分のコップの中身へと視線を向ける。波立つ真っ暗な水面には浮かない顔の自分が映っていた。

 ふと、昨晩の晃牙くんの姿が頭をよぎる。深夜、足音が聞こえたと思って目を覚ませば晃牙くんが丁度ベッドに戻るところで、本当にただ何気なく、眠れないのかと、聞いただけだった。そのまま布団にくるまるとおもっていた彼がこちらに来たことにまず驚いて、そして頭を撫でられたことにも驚いて、そして、そして。
 キスを、されるかと思った。近付いてきた顔、大きくなる吐息。そういう展開を想像したことがないといえば嘘になって、晃牙くんならいいと思って泊まりに行っているのも嘘ではない。でも、私は止めたのだ。彼がこう言えば引き下がると知っていて、止めたのだ。

「ああーーあああもう!難しいなあもう」
「そうか」
「そうだよもーやだ!やだ!自分がやだ!」
「そうか」
「ほんっと何してんだろうなあ本当にさあー」
「そうか」

 アドニスくんを睨めば、彼は丁度三杯目のコーヒーを注いでいる所だった。手には二本のスティックシュガー。そして新しいマドラー。ほんの少し緩んだ頬を見るに、どうやらここのコーヒーがお気に召したらしい。

「トイレ近くなるよ」
「そうなのか?」
「コーヒーは利尿作用があるしそもそも水分取りすぎ」
「お前も一杯どうだ」
「もうすでに飲んでるし」
「そうだな」

 そして空になったスティックシュガーのからと、マドラーをゴミ箱にまた捨ててーー何杯も飲むならマドラーをいちいち捨てるなと言いたいーーアドニスくんは私の隣に歩み寄る。同じように壁に背を向けて二人で立つ。床に落ちた陽だまりに、長い影が二つ。アドニスくんを見上げれば彼はきょとんとした瞳で私を見下ろして、そして微笑んだ。

「大丈夫だ、大神はお前のことを見捨てない」
「まったそんな適当なことを言う」
「適当じゃない、本当だ」

 気分を害した様子もなく、アドニスくんは穏やかに微笑む。喫煙所からの声が大きくなる。そろそろ休憩も終わる時間だ。私も、そしてアドニスくんもそろそろ現場に戻らなければならない。コップにはまだ躊躇いほどのコーヒーが残っている。飲んでしまおうとコップを握れば、アドニスくんが私の顔を覗き込むように少しだけ身をかがめた。その真摯な視線に堪えていた言葉がせり上がってくる気がした。飲み込んだはずの気持ちが胃から、喉からどんどんと上ってくる。指先に力を込めれば、音もなくコップがへこんだ。水面に小さな波が立つ。

「……私は、大神くんのこと、どう思ってるんだろう」
「俺が言っていいのか?」
「いやだめでしょ」
「そうだな」

 アドニスくんは腰を伸ばして、そしてコーヒーを勢いよく飲み干した。どんどんと賑やかな声が大きくなる。煙たいタバコの香りを纏ったスタッフご一行は私たちを見て「10分経ったら再開しますよお」なんて陽気な声をあげてスタジオへと戻っていく。キラキラした笑顔が眩しくて目を瞬かせていると、コーヒーを飲みきったアドニスくんは空になったコップをゴミ箱に捨てて歩き出す。

「大神のこと、ちゃんと見てやってくれ」

 その言葉だけを言い置いて、彼は振り返ることなくスタジオへと歩き去ってしまった。一人残された私は水たまりのような陽だまりを踏み、ほんの少しだけ残ったコーヒーを飲み干した。もう冷えたコーヒーはまるで身体を蝕むようにゆっくりと私の体に染み渡った。


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