恋を塗りつぶせ!!_02
時計の針は午前2時を指し示していた。寝息だけが支配するこの部屋で、未だに眠れない狼が、一匹。ベッドの上で、よく見慣れた天井を見ながら彼女の寝息に耳をそばだてる。すうすうと規則正しいリズムを奏でながら眠る彼女の横顔に目をやれば、胸の奥になんとも言えない罪悪感だとか、欲望だとか、そういった決して明るくはない気持ちが沈殿していく。
タオルケット一枚くれたらそれでいいよと彼女は笑った。もう聞きなれた彼女の謙遜に、ベッドを譲ってやってもいいといつも思うのだが、その度に自分の匂いが染み付いたここに彼女をあげるのが申し訳なく思い、押入れから客用の布団を出してあげている。客用といっても彼女以外にほとんど使うことのない布団だ。(野郎共はそれこそタオルケット一枚ぶん投げとけば適当に寝始めるからである)いつか他の奴が使う時が来るのだろうか。そんなことを彼女の寝顔を眺めながらふと、思った。
非常に危うい関係だということは理解している。晃牙は音を立てないようにゆっくりと体を回転させて彼女と向かい合わせになるように転がった。危機感などなにも感じていないような、呑気な寝顔。だらしなく小さく開いた口は呼吸するたびか細く唇が震える。例えば今ここで彼女を襲ってしまえば、金輪際ここには立ち入らないだろう。襲うまでいかなくとも無防備に眠る彼女を抱きしめてやるだけできっと、瓦解してしまう。お互いに好きにならないと割り切っているからこそ続く関係だ。
男と女よりも、アイドルとプロデューサー、友達としての線引きを優先してしまったのはどちらが先なのだろうか。彼女が、それとも晃牙か。職種は違えど肩を並べて戦っていたはずだった。隣にアドニスがいて、前に朔間先輩や羽風先輩がいて、そして見守るように後ろに彼女がいる。そう思っていたのに。隣に置きたいと、誰でもない自分の隣に置きたいなんてどうしようもない欲望が出てきたのは、なぜだろうか。それとも彼女が隣に立ちたいと思って歩み寄ってきたのだろうか。……違うな、そんなわけはない。もしそうだとしたら、明瞭な彼女がこんなバカみたいな関係を卒業してずっと続けているとは思えない。
音を立てないように静かに体を起こしてベッドから這い出る。彼女を、そしてレオンを起こさないように忍び足で部屋を歩いてキッチンへと向かう。ドリンク入れとして使っている正方形の小さな冷蔵庫を開けば、水溜りのようにオレンジ色の淡い光が床に広がった。中から愛飲しているミネラルウォーターを取り出し、蓋を開けて飲む。冬のきんと冷えた空気に、たっぷりと冷やされた冷たい水。飲み干すたび鮮明になっていく思考に、ああ明日休みでよかった、なんて言葉がよぎる。
晃牙は壁にもたれて、そのまま輪郭に沿うようにズルズルと腰を下ろして廊下に座りこんで、大きく息を吐いた。自分の住み慣れた部屋なのに、まるで自分の部屋でないみたいだ。もう聞こえない寝息だが、部屋を見れば彼女の布団が緩やかに上下しているのが見える。
随分お疲れなことで。お前は少し休むことを覚えろ、馬鹿。なんて、口にできない言葉をミネラルウォーターで流し込む。仕事バカは自分も同じだ。明後日からまた、仕事仕事の連続が続く予定だ。
もしも彼女が仕事を辞めてしまったら、例えばアイドルとプロデューサーというものがなくなってしまったら、この関係は崩れてしまうのだろうか。俺の稼ぎで養ってやるといえば、彼女はここに留まってくれるのだろうか。
空になったペットボトルを適当に冷蔵庫の上に置いて晃牙は立ち上がる。来た時と同様忍び足でベッドに戻れば、小さな、本当に小さな「ねえ」という彼女の声がした。掛け布団をめくっていた晃牙はその音に動きを止めて、そしてベッドから降りて彼女の元へと歩く。しゃがみ込めば、暗がりの中、眠気眼の彼女がじいとこちらを見つめていた。
「悪い、起こしたか」
「ううん、おきたの、まだねるけど……ねむれない?」
「喉が渇いただけだ、さっさと寝ろ、明日も早いんだろ」
うん、と弱々しい声を残して彼女は布団の中に半分顔を埋める。レオンを撫でるように彼女の後頭部に手をやれば、ふふふ、とくすぐったそうな彼女の声が聞こえた。心に沈殿していたどす黒い何かが、胸をえぐる。同時に、なぜこんなにも無防備なのか、なぜ危機感を感じないのか、なんてどうしようもない憤りが胸中を駆け巡った。晃牙は撫でていた手を止めて彼女の頭のすぐ隣に手をつく。音を立てないように静かに距離を縮めれば、もう半分夢の中へと落ちている彼女から「晃牙くん」と声がした。
「おやすみ」
「……ん、おやすみ」
寸で、晃牙は止まった。体を起こしてそのままベッドへと戻る。まるで冷水のように彼女の言葉が胸に染みる。そういう関係ではないから、彼女はここにきているのだ。自ら壊しに行ってどうするんだ。体温で温まっていたはずの布団は中途半端にめくれていたせいで、もう冬の冷気にどっぷりと浸かっていた。足を縮めて体を布団に埋めて、そして後ろめたい気持ちから彼女に背を向けて目を閉じる。すうすうと、後ろから寝息が聞こえる。晃牙の心情など知らず、呑気に、穏やかに、寝息が部屋に満ちる。眠気など一欠片も感じなかったけれど、彼はゆっくり目を閉じた。
やけにうるさい時計の針がようやく微睡みに包まれてた頃、背後でがさごそと音がしたけれど、晃牙は振り返ることなくそのまま夢の中へと落ちていった。
晃牙が目覚めるとそこには彼女の姿はなく、三つ折りされた布団と、机の上に書き置きが残されていた。まだ寝ぼけている頭をなんとか起こしつつメモを見れば
「昨日はありがとう、鍵は郵便受けの中、あとペットボトルはちゃんと捨てた方がいいよ」
そう綺麗な文字で記されていた。見れば昨日の夜飲み干して放置しておいたペットボトルがなくなっている。彼女のそういうところが好きだと、晃牙は人知れず笑った。