恋を塗りつぶせ!!_01

 どこから間違えてしまったのだろうか、と晃牙は考えた。

 それはよく冷える夜だった。部屋の中にいても冬の空気は室内を蝕んで家具から、体から、鋭くじわじわと熱を奪っていく。暖かい毛を纏ってもなお寒そうなレオンを膝の上に抱きかかえながら、そろそろコタツでも出すべきだろうかと晃牙は考えた。今更な気もするが、これからの季節必要な気もする。そう考えていた、ひどく寒い冬の夜だった。

 日も沈んで、見たい番組もあらかた消費して、酒でも飲むかと思ったがイマイチ気も進まず、ならばもう寝てしまおうかと思った矢先に鳴り響くチャイムの音。インターフォンに映るのはよく見知った旧友の姿。二三言葉を交わしてロビーのロックを解除してやると、彼女は嬉しそうに微笑み、そして小走りでマンションの中へと入っていった。

 間違い、と言ってしまうのは違うのかもしれない。正確に言えば分岐点。彼女と出会って彼女と過ごして、そして今に至るまでの分岐点の中に、ターニングポイントとなる場所はどこかにあったはずだ。後悔なんて柄じゃないけれど、今の自分と彼女のような関係にならなかった未来をほんのたまに夢想してしまう。何が悪かったのだろうか。どこが悪かったのだろうか。それともこれは最良な未来なのだろうか。

 ノックの音が聞こえてドアを開ければ、マフラーに首を埋めた彼女が立っていた。入れよ、との言葉に彼女は素直に頷き入ってくる。主張しすぎない、さりげない香水の香りが晃牙の鼻に届く。嫌いじゃないと思った。テレビ局に蔓延るような過激な香りでない、ほんの少しだけのアクセント程度の香りは、昔ほど邪険に思うことはなくなった。

「ごめんね、明日朝早くって……自分の家より晃牙くんの家からのほうが近いのよ、現場」
「ったく、宿代とるぞ」
「もしかして払ったら朝御飯ついてくる?はいこれお土産!」

 彼女は悪びれもなく笑いながら駅前のケーキ屋の箱を晃牙に差し出す。中身を見れば自分用のであろう生クリームの乗ったプリンと、晃牙用であろうコーヒーゼリーが行儀よく並んでいた。見れば彼女はすでにコートを脱いでレオンと遊んでいる。洋服掛けにいつも余らせているピンク色のハンガーには当たり前のように彼女のコートが吊るされていた。

「晃牙くんはご飯食べた?」
「食った」
「そ、じゃあデザートにそれ食べようよ、美味しいんだって、ねーレオン」

 彼女がレオンに笑いかけると、レオンも応答する様に声を上げた。晃牙はため息を吐いて食器棚からふたつ、ティスプーンを取り出す。レオンとじゃれ合っている彼女の背中を通り越して机の上にお土産とスプーンを並べれば、彼女はレオンを抱きかかえながら晃牙の後ろをついてきた。

「ひとつ言っておくが、ベッドは譲らねえからな」
「いいよいいよ、適当に雑魚寝させてくれたらそれで」
「布団ぐらいは敷いてやるよ、干してねえけどな」
「やっだ晃牙くん優しい!ありがと」

 無邪気な微笑みに頬を緩めて、しかし晃牙は慌てて口元を引き締める。態とらしく眉を寄せてため息を吐いてなんとか気持ちを整える。だめだ。流される。どうしても彼女のペースに流されてしまう。しかしやはり嬉しいのだ、現場から近いという理由でも、ビジネスホテルでもなくネカフェでもなく、自分の部屋を選んでくれたことが。

 一体どこが分岐点だったのだろう。晃牙はそう思いながらソファーに腰を埋める。彼女はソファーを背もたれにして、床に座った。いつもそうだ。ソファーが狭いのもあるけれど、彼女は頑なに隣に座ろうとしない。彼女なりの境界線のつもりなのだろうか。晃牙が机の上にあるコーヒーゼリーに手を伸ばせば、彼女もプリンに手を伸ばす。彼女の隣に伏せたレオンが、じいとプリンを視線で追う。彼女はそんなレオンに「だめだよ、これは私のなんだから」と笑った。

「いやでもほんとにいきなりでごめんね?連絡したらよかったね」
「したところでどうせ今日の昼間とかだろ」
「残念でしたー現場行くの決まったのほんの数時間前だから夜かな?」
「変わんねえ……」
「ふふふ、でもあれだね。晃牙くんがもし彼女できちゃったら、こうやって遊びに来ることもできないんだね」

 彼女が振り返る。他意のない無邪気な視線が心に突き刺さる。例えばどこかで彼女に告白でもしていたら事態は好転していただろうか。いや、もしかしたらこの場に彼女がいない未来になっていただけかもしれない。だからこそその一歩がどうにも踏み出せなかった。

「ったく言ってろ……てめえも俺様のとこに入り浸ってねえで早く彼氏でも作れよ」

 舌の上でコーヒーゼリーがごろりと転がる。苦々しく顔を歪めたのはコーヒーゼリーが苦かったからであって、決して、自分の臆病に嫌気がさしたわけでは、ない。



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