その役目は私だけでいい_02

 例えば渋谷のど真ん中に鎮座する大きな広告。そこにでかでかと睨みをきかせる彼が昔の恋人だったなんて言ったら誰が信じるのだろうか。環状線から見える懐かしい顔は面影を残しながらももう大人の顔立ちをしていた。電車が停車駅を告げる。人が乗る。降りる。沢山乗客を飲み込んで電車はもったりと動き出す。徐々に離れていく彼の顔を眺めながら、懐かしいなあ、と私は嘆息した。

 いつから好きだったのかも、いつから恋人になったのかも曖昧で、いまや記憶に薄い。でも2年の終わりには彼はもうそばにいて、共に過ごすことが当たり前になっていた気がする。あの頃の夢に向かって邁進するアドニスくんの背中と、いまや夢を叶えた彼の看板を交互に思い出す。不器用な彼はうまくやっているだろうか。きっと今も昔も変わらない、良い仲間がそばにいるから大丈夫だろうけど。先ほどの看板で、当たり前のように隣で威嚇する大神くんと、やはり貫禄が違う先輩方の姿を思い出してくすりと笑みをこぼした。UNDEADは死なない。彼らの言葉を思い出す。卒業していく年たった今でも、死ぬどころか飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍をしている。

 車内に目的地の駅名のアナウンスが流れて、私はゆっくりとドアの方へと歩き出した。あの頃はゴム製のズックだったんだな、と床を鳴らすヒールを見て肩を落とす。

 いつから好きだったのかも曖昧だったのだが、私たちの終わりもとても曖昧で、形のないものだった。体良く言えば自然消滅。卒業して進路が分かれた私たちは連絡する機会も少なくなり……なんて話題にするのも躊躇してしまうありきたりな終わり方だった。

 最後にアドニスくんに会ったのはいつだろうか。大学を卒業する頃か。違う、アドニスくんが海外に行ったあの日だ。ロケでしばらく海外に行くと、彼は律儀に伝えに来てくれたのだ。

「海外へ行くって、どのくらい?」
「……二ヶ月程」

 今となってはなんてことない期間なのに、あの頃の私にはそれが途方もない期間だと思えてならなかった。そしてそれはアドニスくんも同じで、悲しそうに目を伏せて、すまない、と口にした。
 そう。それが、最後だ。

 なんとなく感傷に浸ってしまったなあ。電車から吐き出された私は人波に流されながら改札口を目指す。ぼんやりと仕事のことを考えていると、けたたましく携帯が鳴り響いた。じわじわと動くエスカレーターの列に並びながら鞄を漁ると着信を告げるランプがせわしなく光る。煌々と光る液晶が通話先の名前を浮かび上がらせている。あまりの意外な人物の名前に、私はえっと声を上げた。すぐさま通話ボタンを押すと、短い沈黙の後、もしもし、と遠慮がちな声が響く。

「もしもし?」
「もしもし」
「……アドニスくん?」

 私がそう言うと、彼は先ほどよりも少し明るい声色で私の名前をなぞった。懐かしい声。テレビではよく耳にしていたけど、こうして電話口で聞くのとはやはり違う。

「久しぶりだな」
「そうだね、珍しいねアドニスくんから連絡してくるなんて」
「そうだろうか」
「うん、なんというか、電話ができるようになったんだね」

 あの頃の、むっと言葉を漏らしていた姿を思い出す。もしかして今でも言っているのかな。もう随分と離れたのだ、むっと言ったら助けてくれる人がいてもおかしくはない。そう考えると心がチクリと痛む。もう私が助けなくても電話できるようになったんだね。肩に電話を挟んで改札をくぐると、電話の向こうで小さな笑い声が聞こえる。誰かといるのだろうか。

「そうだな、昔よりは扱えるようになった」
「そう、よかった。ちょっとは仲良くなれたんだね、携帯と」
「あの頃よりは」

 私がくすくすと笑うとアドニスくんも同じようにふふっと笑い声を零す。こうして軽口を言い合える、あの頃と変わらない距離感がなんともこそばゆい。

「いきなり電話をして忙しくなかっただろうか」
「あー、もうちょっとで会社に着いちゃうから、すぐに切っちゃうかも」
「そうか、今は……」
「まだ見習いのプロデューサーです、もうちょっと成長したらいつか現場で会うかもね」

 アドニスくんは神妙な声で、そうか、と呟いて言葉を切った。もしかしてまずいことを言ってしまったのだろうか。心配になりながら私も口をつぐむ。電話の向こうからはなにも聞こえない。やけにあたりの喧騒が大きく聞こえる。
 信号機が赤に変わる。私は足を止める。流れ行くトラックを見送っていると、電話の向こうから、むっ、と懐かしい困った声が聞こえた。

「アドニスくんは困ったときむってよく言うよね」
「そうか?」
「うん、学生時代から思ってたけど、なんか懐かしくなってきちゃったな」
「そうだな」
「また会いたいね、みんなでわっと騒いでさ」

 電話の向こうから笑い声と、そうだな、と穏やかな声が聞こえる。朔間先輩、羽風先輩、大神くん、そして、アドニスくん。記憶に残るのはまだ幼さが残る高校時代の姿。

 信号機が青に変わる。人々が歩き出す。例に漏れず私も足を踏み出す。

「俺も、会いたい」

 社交辞令も言えるようになった彼を想像しながら私はまた笑いをこぼした。

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