その役目は私だけでいい_03
会いたい、なんて口先だけだと思っていた。夜もどっぷり更けた頃、ようやく仕事から解放された私はおぼつかない足取りで駅へと急ぐ。もう今日が終わる時間も近いのに駅までの道のりに人は多い。妙な親近感を覚えながらクタクタな体を引きずり歩く。
今朝は気分が舞い上がり、現場で会うかもね、なんて大きなことを言ってしまったな。会いたい気持ちは本当だ。でもあの時に口にしたのは「会えない前提の会いたい」だ。形のないぼんやりとした願望。叶いっこないと思って口にした、希望。だいたい今更会いたいなんてむしが良すぎるよね。電話口の優しい声を思い出しながら首を横に振るう。あの電話だけで十分だ。欲張ってはいけない。
そんなことを考えながら歩いていると、急に肩を掴まれた。小さな悲鳴をあげながら振り返ると、真っ先に目に入ってきたのは夜闇でも目立つ紫の髪。溶け込むような褐色の肌。そして私よりも幾分大きな図体。目を瞬かせるアドニスくんの姿に、私はまた心底驚いてしまって声を上げる。心外だと言わんばかりに顔を歪めてアドニスくんは私を見下ろした。
「な、なんでアドニスくん」
「会いたいと」
「は……?」
「今朝、電話で」
電話。今朝方のか!合点がいった私はアドニスくんを凝視して、よくここがわかったね?と口を開いた。アドニスくんは一度頷いて、会社の場所をこの前聞いて、ととんでもないことを口にする。少なくとも夢ノ咲のメンバーには就職先を伝えてないはずだ。今度は私が眉を寄せると、アドニスくんは目を泳がせる。
「……この間」
「うん」
「テレビ局に、いただろう」
この間。彼の言葉を頼りに記憶を辿ると、確かに数日前先輩のお手伝いのためにテレビ局に出向いた記憶がある。まさかその時にすれ違っていたの?
「確かに、居た」
「姿を見かけて抑えがきかなくなった、すまない」
「え、でも見かけただけで?」
出先なので社員証はぶら下げていなかったはず。テレビ局で借りたゲストキーはぶら下げていたがそれで会社が特定できるわけでもないだろう。訝しげな視線を投げる私にアドニスくんは少し言い辛そうに私の先輩の名字を口にした。出るとは思っていない名前に、えっと声をあげると、アドニスくんはさらに居心地の悪そうに身を縮めながら、すまない、と弱々しく言葉を吐く。
「……本当はマナー違反なのだろうが、聞いてしまった」
会社と、お前の近状と。切々と暴露を始めたアドニスくんに、もはや返せる言葉もなくて、ただただ目を瞬かせることしかできなかった。要するにテレビ局ですれ違って、先輩をひっ捕まえて私のことを聞き出したってこと?それなら勤め先を知っていることも合点がいく。
暴走気味なことは自覚しているらしく、彼はまた、すまない、を繰り返した。私は首を横に振るい、大丈夫だよ、と笑みを浮かべる。
「ちょっとびっくりしただけだから、その、お元気そうでなによりです」
「お前も、元気そうで良かった」
慈愛に満ちた視線と連れ添って、よそよそしい空気が流れ出した。今の彼にどこまで踏み入っていいのだろうか。何を話せばいいのだろうか。彼を見上げると、あの頃と同じ紅茶色した瞳が真直に私を射抜く。あれからどうしてた?海外はどうたった?みんなは元気?聞くことなんてたくさんあるくせに、言葉にならなくて私も彼を見返す。視線だけがただただ交差する。
そんな空気を切り裂くように聞き覚えのない着信音が響き渡った。アドニスくんの顔が曇り、ポケットに手を入れて携帯を取り出す。鳴き声をあげるそれを見て彼はあの頃と同じように、むっと声を漏らした。そしてごく当たり前のように私を見て、携帯を差し出す。
「携帯、使えるようになったんじゃないの?」
「……あの頃よりは」
「でも電話できたよね?今朝」
「隣に大神がいたからな」
堪えきれない笑いをこぼすとアドニスくんは表情を緩めて私の手のひらに携帯を滑り落とした。メールの受信を知らせる通知。懐かしい状況に学生時代の思い出がフラッシュバックする。
「……ちゃんと覚えないと、困るよ」
ロック解除の文字をなぞるように指を滑らすと、パスコード入力もないまま待ち受け画面が開いた。なんて無防備な、と思ったが一人で起動できないような人がパスコードを使うわけもないか、と一人納得してしまう。メールアプリを開いて、本文寸前の画面まで進むとアドニスくんに渡す。彼は携帯を受け取ると、画面ではなく私をじっと見つめて、困らない、と口にした。
「……お前がいてくれるなら、困ることはない」
彼は私の腕を掴んだ。携帯の液晶が黒く染まる。着信を告げるランプは未だに灯ったままだ。
「もう一度、側にいてくれないだろうか」