追憶の光_02

 次の日は生憎の雨で、ぐずぐずと空は唸り声を轟かせている。疲れ切った体をなんとか引っ張って退社すると、私を出迎えてくれたのは水浸しの世界だった。雨足は弱まってはいるものの、点在する水溜まりに広がる波紋は決して少なくはない。深々とため息を吐いて傘を広げると私は駅に向かって歩き出した。本当についていない。おろしたてのスマホをポケットから取り出し、画面を指先でなぞると、初期の壁紙に大きく時間が映される。午後十時。決して早くない時間に吐き出したため息は春だというのに白く曇り、花散らしの雨の中へと浮かび消えた。

 おろしたての日というのはなにか幸運を運んでくれる予感がしていたのだ。例えばおろしたての靴、おろしたての服、身に付けているだけで気分が高揚するのに、どうにもこの携帯は私に幸せを運んでくれなかったらしい。重なる仕事と、ミュールに染み込む水しぶき。ぐちぐちと音をたてはじめたタイツに顔をしかめながら雨の町をひたすら歩く。この時間は帰宅ラッシュらしく、透明な傘の花が至るところに咲いていた。ぶつからないように素早く人の間を潜り抜けて駅を目指す。帰ってタイツを脱いで、そして寝る。脳裏に浮かべた完璧なスケジュールを遂行するために、私は足を運ぶリズムを少しだけ早める。すれ違う人たちを追い抜きながら歩く、歩く。

「ねえ、大神くんが駅にいるらしいよ」

不意に聞こえてきた声に私は足を止めた。女子高生らしい、可愛らしい声だった。だが、周りを見渡しても声の主らしい人はいない。もしかして幻聴?昨日あんなこと思い出したから?先程より歩みの速度を落とし歩きながら辺りに耳を澄ませてみるけど、もうなにも聞こえない。雑多な会話が耳に入るだけだ。やだなあ、未練って幻聴をつれてくるのかしら。自分の浅ましさに苦笑しながら、頭を振るって駅を目指す。
 駅は暗く淀んだ町を照らすように暖色の光を煌々と輝かせていた。辺りに特異な人だかりはない。一応彼もアイドルだし、もしこんな場所に現れたら人だかりができるはず。ほんの少しだけ期待していたのか、心につきんと痛みを覚える。でも会ったところで何を話すの。それに彼がまず私に用事があるわけがない。百歩譲ってあったとしても、今の、あれから成長した私を見つけられるはず、ない。心のなかでそう言い聞かせながら改札の方へとつま先を向けた。

 かつん、とヒールが足音を響かせたそのとき、急に後ろから腕を引っ張られる感覚に襲われた。引っ張ってくるなにかを振り払おうと反射的に掴まれた腕を振り上げると、うおっ、なんて小さな悲鳴と解かれる拘束。

「テメ......相変わらずいい度胸してんじゃねえか」

 聞こえた懐かしい声にどくりと胸が高鳴る。振り上げた私の腕を彼は掴んで下に降ろすと、目深に被った帽子のツバを少しだけ上げて、よぉ、と短く挨拶を口にした。泣きたくなるほどの懐かしい琥珀色の瞳に、私は思わず息を飲んだ。

『ねえ、大神くんが駅にいるらしいよ』

 あの言葉は本当だったのか。成長した大神くんはテレビで見るよりも大人びて、しかしあの頃と同じような、何処か斜に構えた笑顔を浮かべると強引に私の手を引いた。

「帰るぞ」

 数年越しの再会は驚くほどに突然で、未だに状況が飲み込めない私は彼に手を引かれるまま歩き出した。

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