追憶の光_03

 タクシーを転がして十数分の所に、彼の新居はあった。さすがアイドルとでも言うのか、厳重そうなオートロックを開けて、豪華なエントランスをくぐり、彼に連れられるままマンションの一室へ足を踏み入れた。ただいま、という彼の声に続いて、お邪魔します、と声を出す。もしかして大神君誰かと住んでるのかな?と過ぎった疑問は騒がしく響く足音ですぐに解消された。ドアの隙間を縫って現れたレオンは大神君と私を見比べて一瞬立ち止まり、そして少しの思案の後声をあげながら私の足にすりよってきた。

「レオンー!私のこと覚えててくれたの?」

 かがんで彼の顔を撫で回してやると、レオンは嬉しそうに鼻を鳴らしながらべろりと私の手を舐めてくれた。高校時代はよく大神君の家に行ってレオンの散歩をして帰ったっけ。淡い青春の日々に思わず顔が緩む。

「においが変わんねえからだろ」

 大神君は早々に靴を脱ぐと一室のドアを開けてがさごそと物音を立てながら何かを探している。ほらよ、とドアの隙間から投げられたタオルは見事私の頭の上に着地した。

「流石に脱がせるわけにはいかねえし、足元それで拭いとけ」

 そう言ってくれる大神君の好意は嬉しかったけど、本当のことを言うと、上がっていいのかどうか、私のなかでまだ決意は固まっていなかった。一応これでも大人だから、異性の人の家に上がることの危険性くらい、わかっているつもりだ。このまま引き返した方がいいのではないか、なんて弱虫が私の足をつかんで離さない。水浸しになったミュールを脱いでちんたらと濡れた足を拭いていると痺れをきらしたのか大神くんがこちらへ大股で歩いてきて、強引に腕をとって私を部屋へと引き上げた。彼は私が使っていたタオルを取り上げると、道中にある洗濯籠へ投げ入れる。なんというかすごくその行動にあの頃の大神くんを見た気がして私は思わず笑みをこぼした。そんな私を見て彼は一言、気持ち悪いやつ、と一言呟いた。

 彼の部屋はあの頃住んでいた場所よりも少しだけ広い、だけどアイドルが住んでいると言われると首を傾げたくなるような広さだった。二人がようやく座れる小さなソファに大神くんが腰かけると、レオンが当たり前のようにソファに飛び乗り、彼の隣で寄り添うように体を丸めた。大神君はそんなレオンを持ち上げて自分の膝の上に乗せると、座れよ、と一言。流石に近すぎませんか、と言おうと口を開いたけど、あまりの彼の凄みに大人しくソファに身を沈めた。定位置を取られたレオンは不満そうに唸り声を上げながら大神君の腕の中でじたばたと暴れだした。そして彼の拘束から飛び出すと私のももの上に飛び乗り、幾度か落ち着ける場所を値踏みして腰を下ろした。そしてのんきに大きくあくびをすると、自分の前足に首を置いて、目を伏せてしまった。

 かくして肩の当たる距離で座ったしまった私たちは特に会話の糸口も見つけられないままぼんやりと雨の音を聴いていた。可愛らしい重しはたまにもぞもぞとそのみをうごかして座り位置を修正する。太股にはしるこそばゆい感触に肩を震わせると、大神くんがレオンのおでこを軽く撫でる。

「......元気だったか」

 レオンを撫でながら、大神君が一人ごちるように呟く。彼の横顔があまりにも私の知っているそれとは大きく離れていて、どきりと胸が高鳴る。そうか彼も大人になったのか。幼さが残るあの頃の笑顔がどんどんと今の彼に塗り替えられていく。

「元気だったよ、あ、大神君のこと、テレビでよく見るよ」
「そうかよ」
「ちゃんとアイドルになったんだね」
「まあな......テメェのお陰でな」
「私はなにもしてないよ」

 ぽつりぽつり。まるで降り始めの雨のように不規則で、そして静かに、会話は続いていく。これだけ近いのに意気地なしな私は大神君の顔が見れなくてただただ前を見て言葉を放つ。他愛のない話のラリーは、自分たちの近状からユニットの現状の話へと移り、あんなことがあったね、こんなことがあった、なんて昔話へと変貌した。クラスのこと、部活のこと、ユニットのこと。話題はどんどんと出てきたのに、それでも卒業のあの日のキスの話題は不自然なほどお互い触れなかった。いや、触れられなかったんだとおもう。

 不意に、途切れた会話に大神くんが一度息を吐き出して、喉乾いたか?と尋ねてきた。

「なんか飲むか?」
「いや、いいよ、明日も仕事だからあんまり長居しないつもりだし」

 私が微笑むと、大神くんが一瞬言葉を詰まらせたように小さく声にならない音を吐いた。だってここにいたらずっと居たくなっちゃう。もう交わることなんてないと思っていた夢のような会合は、早く切り上げないと現実に戻れなくなってしまう。こうしてまた会えただけで幸せなのだ。
 笑顔を浮かべる私に大神君は

「……あの日」

 と口火を切った。あの日、と言われて脳裏に浮かぶのは卒業式の昇降口。二人でこうして肩口を寄せ合って笑っていた、あの日。私が横を向くと、大神君は弱々しく笑いながら、ようやくこっちを向いたな、なんて言って笑った。思いの外近い距離に体をのけぞらせたかったけど、可愛らしい重石がそれを許さない。大神君はソファの背もたれに右手をかけて、少しだけこちらに身を寄せた。

「キスしたこと、俺は、間違ったと思ってねえ」

 真剣な眼差しが私を捉える。外の雨は本降りになってきたらしく、窓を叩く雨の音が沈黙に満たされた部屋に流れ込む。

「過去のことにするつもりも、ねえ」

 そう言って距離を詰めようとする彼を制したのは、突然部屋に響くバイブレーション音だった。聞きなれない、断続的に流れる音に、さっさと出ろよ、と不機嫌そうな大神君の声。あ、そうか携帯変えたばかりだから。慌てて脇に置いてあったカバンから取り出すと、携帯はちかちかと赤く瞬き、電話の着信を告げている。取ろうと画面に指を置いた瞬間に、バイブレーションは途切れて、留守番電話へと切り替わってしまった。

「……彼氏か?」

 それって今まさにキスをしようとした人のセリフ?彼の間の抜けた質問に噴き出しながら、仕事の電話だよ、と告げると、大神君はばつの悪そうに舌打ちをして、そうかよ、と短く言葉を切った。

「折り返しあとで掛け直すよ、あと彼氏はいないです」
「……んなこと聞いてねえ」
「ついでに言うと携帯の番号も変わってません、嘘だと思うならかけてみる?」

 私の挑発に大神君はポケットに入っていた携帯を取り出して器用に片手で操作する。数秒後、携帯のランプが銀色に光り、画面にはデカデカと「大神晃牙」の名前が並ぶ。

「お互い、番号変わってなかったんだね」

 あれだけ焦がれていた銀色の通知がこんなところで叶うなんて。振動音と楽しげに光るシルバーを眺めながらため息を吐くと、大神くんは、くだらねえ、と通話停止ボタンを押して携帯をポケットにしまった。

「……私も、過去にするつもりはないよ」

 携帯を脇に置いて、大神君を見据える。大神君も視線を逸らすことなくまっすぐに私を見つめた。あの日も、キスの前は見つめあったんだっけ。いやもう、過去を振り返ることはやめにしよう。ちかちかと光る銀色を思い返しながら少しだけ彼の方へと身を乗り出す。大神君もソファに回していた手を上げて、私の肩に添える。

「……好きだ」

 大神君はそう言うや否や自分の唇をそっと、わたしのそれと重ねた。

 桜吹雪、黒い筒、ほんの少しの寂寥感と、未来への希望。あの頃の気持ちが胸の中に浮かんでは、昇華するように消えていった。あの日のキスは、重ねるだけの可愛らしいそれだったっけ。離れては重ねるを繰り返す大神君の唇のリズムと、外に流れる雨音に耳をそばだてながら、私も彼の肩に手を乗せて、お互いの離れていた時間を埋めるように、何度も口付けた。

「私も、好きです」

 吐き出した息と共に漏れた声に、大神君は口の端を上げて笑い、幸せにしてやる、と一言、呟いた。

 ふと彼越しに見上げた窓には街灯の光を反射した銀色の細い雨がざあざあと音を立てて世界を濡らしていた。細い雨に混ざってひらりと、終わりかけた桜の花びらが見えた気がした。あれは今の花びらか、それとも、あの日の幻影か。私にはわからない。だけどあの日に置いてきた気持ちが今ようやく通じ合ったことは確かであり、真実なのだ。

「うん、幸せにしてね」

 泣きたくなるほど幸せなのに、これ以上の幸せがあるものか。大神君はわざと音を立ててキスを落とすと、覚悟しとけ、とくつくつ笑い声を上げた。

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