それは恋の音に似て_03
少し騒がしい始業前の教室は、今日もクラスメイトの声で溢れかえっていた。方々からの挨拶を返しながら机の間を縫って自席へとたどり着くと、スクールカバンを下ろし、私は一つため息をついた。遠い席なら問題なかったんだけどなあ。主がいない斜め前の席を見て、私は肩を落とす。この前の席替えで近くになったんだっけ、あんまり気にしたことなかったのに、今日は妙に胃が重い。いや、案外会ったらそんなことないかもしれない。そもそも特別仲が良いというわけでもないし、一日会話を交わさないことだってざらにあるから気にしたら負けなのかもしれない。椅子を引いて腰かけると、ほぼ同時に教室の前方の扉が音を立てて開いた。オッちゃんおはよー、というスバルくんの声に導かれるように私は目線を教室の入り口に投げる。仏頂面の彼はスバルくんに、おはよう、と返答しながら、教壇の前を横切った。あれ、ちょっと待ってよ、うそでしょ。明らかな変化が、私の胸の中で起こっていて、思わず口の裏をきゅっと噛みしめる。ばれないように、彼がこちら側へ曲がってくる前に慌てて目線をそらしてカバンの中から教科書を取り出す。その間もばくばくと騒ぎ立てる心臓が、耳障りに鳴り響く。でたらめなページを開いて、筆箱から筆記用具を取り出して。自分の心臓の忙しなさに軽く混乱しながら一時間目の準備をしていると、斜め前から机にカバンを下ろす音が聞こえて、うっかりそちらに目線を投げてしまった。
「おはよう」
「お、おは、ようございます」
椅子を引くために振り返った彼と目が合って、たどたどしく挨拶を交わした。乙狩君は私の声にふっと笑みを零して、勤勉だな、と一言。彼の低い声が耳に届くたびに大げさなほどに震える心が、恨めしい。曖昧に笑顔を浮かべ、学生だもの、と震える声で伝えると、乙狩君は私の机を見て、また笑顔を零した。
「だが、数学は二時間目だから少し早いな」
「えっ」
全く気が付かなかった。眼下に広がる数字の羅列に恥ずかしさやら情けなさやら入り混じった気持ちが胸をきゅうきゅうと締め付ける。ああ、恥ずかしい!なんで今日に限って!忙しなく教科書を片付ける私に乙狩君は笑い、そして前を向いてカバンから教科書やノートを取り出し机にしまう。そんな彼の大きな背中を見ながら、これはもう言い逃れできないな、と私は自分のシャツの胸元を握りしめた。そうか、これが、これが恋なのか。
正直、授業に集中できたかといわれると、出来るはずがなかった。例えばプリントを後ろに配るときは彼の横顔が嫌でも目に入ってしまうし、そうでなくともゆらゆらと揺れる紫の髪の毛が、昨日の記憶を呼び起こして私の頬を赤く染める。隣の席の遊木くんには調子悪い?って聞かれちゃうし、なんだかもう散々。散々なくせに乙狩君を見るたびに喜ぶ自分が心の奥底にいて、本当に憎たらしい。
四時限目の終了のチャイムが鳴ったので、お弁当を持って立ち上がると、丁度乙狩君もカバンから財布を持って立ち上がる瞬間だった。なんだか今日はやたらと多い気がする。意識しているからかな。直視できずに携帯をポケットに入れて一歩踏み出すと、後ろから乙狩君が私を呼び止めた。普段は気にしないのに、呼ばれただけで心臓が跳ねる。一度唾を飲み込んで心を落ち着け、平然とした態度で振り返った。乙狩君は私の方へ歩み寄ると
「もしかして食堂か?俺も一緒に行こう」
と提案をしてきた。いやいやいや、なんで、なんでなの。嬉しいけど、嬉しくない。心の奥底でふつふつと湧く喜びを悟られない様に笑顔を作ると、いいよ、と私は乙狩君に伝える。乙狩君は私の一言に嬉しそうに顔を綻ばせて、なら行こう、と大きな一歩を踏み出した。何あの笑顔。あんな笑顔見たことないんですけど。また知ってしまった新しい乙狩君に心を乱されながら彼の一歩後ろを歩く。それは顔をできるだけ見ない様にするためでもあったし――この状態で隣を歩く度胸なんて、私にはなかったのだ。
購買へ行く、と言う乙狩君と分かれ道で別れたあと、私は競歩のように足を素早く動かしながらガーデンテラスへと向かった。辺りを見回すと背後から晃牙君の声。振り返ると定食を半分ほど食べ終わっている彼は、遅い、と朝のようにまた一言文句を垂らした。私は足早に彼のもとへ近づいて、乱暴に椅子へ腰を下ろす。そしてお弁当を机に置き、結び目をほどいて、盛大なため息を吐いた。
「晃牙君の言う通りでした」
皆まで言わずともわかるということか。晃牙くんは私の一言に得意げに顔を綻ばせて、言った通りじゃねえか、と鼻を鳴らした。彼が美味しそうに頬張っている定食のカレーの香りが鼻腔をくすぐり、思わず生唾を飲み込む。今日の定食カレーなら、お弁当断ればよかったかな。そう思いながら母親が作ってくれた弁当箱を開けて両手を合わし、いただきます、と呟いた。一番最初に目に入っただし巻き卵をお箸で2等分しながら口に運ぶと、晃牙くんが、じいと私の顔を見つめて
「で、どうすんだよ」
と一言。晃牙君の一言に驚いた私はろくにだし巻きを味わう暇もなくそのまま飲み込んでしまった。ごろりと喉で転がる感触を水で流し込みながら、首を横に振るう。
「どうしよう、何も考えてない」
「アドニスは鈍いからな、まずはアピールだろ」
「アピール?」
卵のすぐ隣に鎮座している冷凍のコロッケを咀嚼しながら彼に問うと、晃牙くんもスプーンでカレーとお米をかき混ぜながら神妙に頷く。
「好き、というよりは存在のアピールだな」
「例えば?」
「UNDEADのユニット練習に顔を出してみるだとか」
「直近の練習日っていつ?」
そう言うと途端に晃牙くんの顔が曇った。そして目線を逸らせながら小声で、決まってねえ、とばつの悪そうにつぶやいた。そうか、羽風先輩も朔間先輩もつかまりにくいもんね。私は肩を落として、元気出してね、と晃牙くんに言葉をかけた。
「つうかお前ら一緒のクラスなんだろ、ペア組む時に率先してアドニスのもとに向かうとかよ、あるじゃねえか」
「それだ!」
「まあ相手はあのアドニスだからな、前途多難だろうが頑張れよ」
私が力強く頷くと、晃牙君は満足そうに笑い、スプーンでカレーを掬い口に放り込んだ。私も彼と同じように先ほど割っただし巻きを口に放り込んだ。口の中で解けるような甘味が、じんわりと心を癒してくれる。そうか、アピールか。ご飯をひとかけら口に放りこみながら晃牙君の言葉を何度も何度も反復した。