それは恋の音に似て_02

 当たり前の話なのだけれども、寝たらちゃんと朝が来た。カーテンから差し込む朝日を一瞥してベットからもそもそと抜け出す。一晩寝た後でも、乙狩くんのあの姿はしっかりと脳裏に焼き付いたままだ。晃牙くんはあの爆弾発言の後、それはそれは楽しそうに私をからかった後で

「面白そうだから協力してやるよ、ありがたく思えよ」

と嘯いたのだ。純情な乙女心を楽しそうの一言で片付ける彼の態度には多少腹が立ったけれど、冷静になって考えてみると、そもそもあんな風に恋に落ちるなんてあまりしっくりこないし、そもそも乙狩君と私は教室で多少しゃべる程度の間柄なはずだ。一目ぼれには遅すぎて、恋に落ちるには浅すぎる。だからきっとあれは夕日のマジックに違いない。私はそう結論付けて大きく伸びをした。まだ寝坊助の季節、空は淡い星を残しながら、新しい朝の準備に勤しんでいた。

 ゆっくりと身支度を整えカバンを背負うと私はリビングに向かった。朝ごはんの香りに誘われるように席に着くと、目の前でトーストを頬ばていた弟がちらりとこちらに目線を向けて、おはよう、と一言、そしてまたトーストをかじる。おはよう、とのんびり返事を返すと、湯気を燻らせているトーストに手を伸ばした。一口頬張るとバターのほんのり乳臭い甘さがが舌の上で踊る。頬を緩ませながらゆっくりと咀嚼していると、突然ポケットの中の携帯が震えた。右手の指先についたパン屑を落としてポケットから携帯を取り出すと、ディスプレイに浮かぶ「大神晃牙」の文字。そして

「7:30 公園」

 あまりに端的なその文章が待ち合わせのことを示していることに気が付くまで随分とかかってしまった。慌てて時計を見ると7時を少し過ぎた時間を示している。公園までは走って15分。慌てて残っているパンを口へと放りこむとトーストのかすが気管にはいり盛大に噎せてしまう。目の前で同じようにパンを頬張っていた弟はそんな私を憐れむ目で見つめ、背後で水仕事をしている母は、慌てて食べるからよ、と呑気な笑い声をあげた。なんかもう、暫くはパンは食べたくない気分かも。

 私は返事もそこそこに空になったお皿を母に押し付けると、机の上の携帯と脇に放り投げていたカバンを引っ掴んで外へと飛び出した。携帯の時計は7時18分。走れば何とか時間には間に合う。というかもうちょっと早く連絡してきなさいよね!

「晃牙君の馬鹿」

 ぼそりと零した悪態は風に流されてどこかへ飛んでいく。ほんのり汗ばむ額と痛み出した横っ腹の警告に耐えながら私は通学路を駆け抜けた。

「遅い」

 息も絶え絶えに公園へ駆け込んだ私に浴びせた第一声は、それだった。一生懸命走ってきたんですけど、と文句を垂れると晃牙くんは、ふうん、と鼻を鳴らして自分の髪の毛を一房つかみ、はねてる、とだけ言った。慌てて自分の髪を梳くと晃牙くんはケラケラと笑い声をあげた。
 朝の公園は生まれたての爽やかな空気で満たされていた。夜中に冷やされていた空気が呼吸をするたびに肺へと流れ込む。汗ばむ体に、この冷たさは心地がいい。ハンカチで首元の汗をぬぐうと、晃牙くんは、行くぞ、と一歩踏み出した。

「ねえ、用事があったんじゃないの?」
「ああ?協力するっつっただろ昨日、作戦会議だ作戦会議」
「そうは言っても、好きじゃないかもしれないじゃん、昨日格好いいなあと思っただけの可能性だってあるよ」

 むしろそちらの可能性が大きいんだけど。大股で歩く晃牙君に置いて行かれない様に早足で駆けると、晃牙君は顔を顰めてこちらを振り返り

「あんな顔しておいて何言ってやがんだ」

 と一言吐き捨てた。

「アドニスは悪い奴じゃねえよ、安心しろ」
「あ、それは何となく知ってる、優しいよね」

 私の一言になぜか晃牙くんが得意げに笑う。そして、お前見る目があるじゃねえか、と私の肩を軽く小突いた。だからまだ好きとかじゃないって言ってるじゃんか。分からず屋な晃牙くんに顔を背けると、すねてんのか、と晃牙くんが私の顔を覗き込んできたから、わざと顔を顰めて、好きかわかんないって言ってるじゃん、と口を尖らせた。

「まあテメエがそこまで言うなら何も言わねえけどよ、あれじゃねえか、会ったらわかるんじゃねえの」
「乙狩君に?」

 私の疑問に晃牙くんは神妙に頷いてカバンを持ち直した。カバンについているチェーンが金具に触れてかちゃりと音を鳴らしながら揺れる。

「通常時の、いつもお前が見てるアドニスを見て、お前がどう思うかだな、まあ結果は見えてるけどな」
「ああ、そうか今日会うのか、なんとなく気が重いな」
「腹くくっていけっつーの」

 彼はまた私の肩を小突いて楽しそうに笑った。私も彼につられるように笑顔を零してカバンを一度背負いなおす。教科書がカバンの中で揺られて、その重みに体をふらつかせると、晃牙君は目敏くそれを見つけ、ひ弱、と鼻で笑った。
 朝の通学路は、新緑がみずみずしく太陽の光を受けて光っている。先ほどまでの夜に冷やされた風は朝日に温められて、ほんの少しだけ、夏の香りを運び吹き抜けた。

「どちらにせよ結果は教えろよ、今日昼飯、ガーデンテラスで」
「うわ、人多いじゃん、もうちょっと人少ないとこにしようよ」
「ばーか逆に誤解されんだろ、着いたら連絡いれろよ」

 彼のカバンのチェーンが陽光を反射してきらりと光る。いつもより頼もしい横顔を横目で見つめながら、わかった、と私は短く返事を返した。今思い返すと、この忠告をしっかり覚えておけばよかったのだ。この時の私は乙狩くんに恋をしているかしていないかの気持ちの選定で頭がいっぱいだったから、仕方のないことかもしれないけれど。

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