それは恋の音に似て_01

 まるで風のような、その真剣な横顔に私の心はいとも簡単にかっさらわれてしまった。新緑が茂る初夏の季節。湿り気を帯びた風に夏を感じながら、あの日はそう、晃牙くんに頼まれた差し入れを買いに行ったのだ。前日は雨が降っていて、グラウンドにはところどころに小さなぬかるみが残っていた。水たまりを踏まない様にとそろそろ歩みを進める私と対照的に、「それ」は私の目の前を駆け抜けていった。
 彼の足がぬかるみを踏みつける度に小さな飛沫が宙を舞う。しかし決して彼は速度を緩めることはない。グラウンドにひかれたコーナーをなぞる様に一心不乱に走り続ける乙狩くんの姿に、私は晃牙くんのお使いなど忘れて、ただただ茫然とその姿を眺めていた。視線を奪われる、とはまさにこの事を言うのだろう。彼が走り終え前かがみで息を整えだした頃、ようやく私は我に返った。空は茜色、夕日に染まるグラウンドで、彼は大きく身を反らせながら空を仰いだ。紫色が、風に遊ばれて悠然となびく。いつもは何を考えているかわからないようなそんな彼なのに、今目の前にいる乙狩君は一等に格好良かった。絵画のようなその光景に思わず息をのんだのだが、次の瞬間彼がおもむろに自身のTシャツで汗を拭きだしたので、私はあわてて目線を外した。ちらりと見えてしまった、彼の立派な腹筋。いけないものを見てしまった気がして、私はその場から離れようと目的地の方向へつま先を向ける。ああ、だけどあと少しだけ。離れる前に一度だけ乙狩君の方を振り返ると、彼はやはり真剣な面持ちでグラウンドを駆け抜けていた。どうしてもその姿から目が離せられずに、私はただただ立ち尽くす。私を恋へと引き込ませる「風」が、そこには確かにあったのだ。</p>

 どたばたと騒がしく階段を駆け上がり軽音部のドアを開けると、晃牙くんが不機嫌そうに、どこで油売ってたんだよ、と一言噛みついてきた。私はそんな悪態に返答できる気力もなくて、力なくドアを閉めると、そのままそれを背中でなぞる様にもたれかかりながら座り込んだ。彼のご所望だったスポーツドリンクがころりと床へ転がる。ペットボトルを転がす私にお咎めもなく、どうしたんだよ、と狼狽する彼の声を拒絶するように私はうつむいて、両手で顔を覆った。

「やばい、ちょっと今顔見ないで、やばい」

少しの沈黙の後、貰ってくぞ、という声とちゃぷりと水の揺れる音が耳に届く。私は両手から顔をあげて、どうぞ、と言うと晃牙くんはこちらを見下ろして、

「顔真っ赤じゃねえか」

 と笑った。そりゃ真っ赤だよ、真っ赤にもなるよ。あんなものを見てしまったのだから。脳裏に浮かぶ乙狩君の姿にまた心臓が跳ね上がる。ここ数か月同じクラスにいたのに、あんな表情を見るのは初めてだ。まるで何かを追い求めるような純粋な瞳のきらめき。褐色の肌に滴る汗。すべての要素が私の心を揺さぶる。緩んだ表情を見られたくなくてまた両手で顔を覆うと、お前さあ、と間近に晃牙くんの声が聞こえた。顔をあげると晃牙くんが私の目の前で仁王立ちをして、とても楽しそうな笑みを浮かべている。

「さっきさあ、とんでもないものを見た」
「とんでもねえもん?ああ、お前さっきずっとアドニスの事見てただろ」

 晃牙君は私の目の前にしゃがみ込んでペットボトルのふたを開ける。水を一口流し込むと、キャップを閉めてこちらを見つめて、ふうん、となにやら意味深な笑みを浮かべた。そうか、よく考えたら私が彼を見つめていた場所は窓から見える位置だったっけ。気恥ずかしさに言葉にもならない唸り声をあげると、晃牙くんはそれはそれは楽しそうに口の端をあげて笑った。

「な、なに!動いてたから見てただけだし!」
「動いてたからねえ、ふうん」

 訳知り顔で晃牙くんは笑うと、楽しそうに彼の眼が細まる。彼の金色の瞳が悪戯に光るのをわたしは確かに見たので、思わず身を引いた。が、ドアが阻んで距離を離してはくれない。ぎい、と軽音部の扉は情けない声をあげる。晃牙くんは逃げ腰の私から目線を離さずに、わざとらしく一言一言明瞭に言葉を吐いた。

「お前、アドニスのことが好きなのか?」

 ばくん、とひときわ大きく心臓が声をあげた。体中の血液がどくりどくりと音を立てながら急ぎまわる。高鳴る鼓動を鎮めようと頭振りながら、新しいおもちゃを見つけたように目を輝かせる晃牙くんを思い切り睨んだ。

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