恋を始める。_03
今日もいつもと同じようにユニット練習を見て、少しだけ先生たちと来年のプロデュース科のカリキュラムの話をして、軽音部へと足を運んだ。時計はもう既に8時を指していたので、もう大神君は帰っているかもしれない。それでも一縷の望みをかけて階段を駆け上ると、予想とは反して軽音部はまだ明かりが灯っていた。いつもと同じように3回ノックをすると、あいておるよ、との先輩の声。私がドアを開けると、そこには朔間先輩一人だけが部室に佇んでいた。「すまんのう、わんこは少し前に帰ってしまってな」
「あ、大丈夫です、なら私一人で」
「のう、せっかくじゃし、我輩と帰らんか」
突然の申し出に私は目を大きく見開いた。当たり前だけれども、彼にも帰る家はあるのか。突然のことに狼狽する私に、朔間先輩はくすくすと笑いを漏らしながら、
「夜道は危ない、ついでに嬢ちゃんとはゆっくり話してみたかったしのう」
彼の紅の瞳が鋭く私を捉える。ノーとも言えなくなって、その瞳を見返していると、そう身構えるでない、と先輩は肩をすくめて、傍にあった自分の鞄をゆるりと肩にかける。
「帰るぞ、っと、嬢ちゃんはどちらの方向か?」
「……大通りの、商店街通るほうです」
「そうか、ならば行くぞ」
先輩は有無を言わさぬ様子で歩き出した。大神君は物理的に私を引っ張るけれど、こう、拘束されてないのに逆らえない凄みとはこういうことをいうらしい。どこどこと鳴り止まない心臓の音を聞きながら、私は長く伸びた彼の陰に添うように歩き出した。
「して、嬢ちゃんとわんこは付き合っておるのか?」
「へ?!いや、そんなことはないですけど」
朔間先輩とこうして二人で歩くのは奇妙な感じがする。そもそも朔間先輩が外に出ているなんて。見ているこちらが心配になるような足取りで日中さまよっている姿は見かけるが、足取り確かに帰路につく、なんてレア中のレアなんじゃないだろうか。きっと夜だからかな。じいと彼を見上げると、先輩はそんなに見られたら照れるのう、と嬉しそうに顔をほころばせた。
「嬢ちゃんはわんこのことは好きかえ?」
「まあ、嫌いじゃないかなって」
「そうかそうか、嫌いではない、か」
朔間先輩はふむう、と顎に手を置いて瞳を閉じる。何かを考えているのか長い睫毛が、まぶたが揺れるたびにわずかに波打つ。端正な横顔とはこういうことを言うのだろう。整った顔立ちに少しだけ見惚れていると、先輩は急に目を開いて、表情を崩す。
「わんことはどういう風に帰っておる?ほれ、例えば公園で二人でクレープとか」
「何を急に……別に普通ですけど、あ、でも肉まんはたまに食べます」
「ほう、なら善は急げじゃな」
今日は肉まんを欲するほど寒い季節ではなかったし、言うべきではなかったのかもしれない、とも思ったけど、嬉しそうにコンビニへ駆け出す朔間先輩の横顔を見てると、言ってよかったな、なんてぼんやりと思う。肉まん、と言ったら大神くんいつもむすっと口を尖らせるし。でもなんだかんだで食べるけど。嬢ちゃんも早く来んか、と足取り軽くコンビニに向かう先輩に、待ってください、と声をかけて小走りで駆け寄る。
コンビニに入るといつもの店員さんが私と先輩を見て、少し驚いたように目を丸くして、そうして取り繕うように笑顔を浮かべ、いらっしゃいませ、と口にした。肉まん二つ、と私が言うと店員さんはいつもの笑顔で、少々お待ちくださいと、肉まんを取りに行ってくれた。私が財布を鞄から取り出すよりもはやく、朔間先輩がすっとお札をレジに置く。
「今日は我輩のおごりじゃ」
そういたずらに笑う先輩は財布を持った私の右手ごと鞄に押し戻して、しいと人差し指を自分の口元へと持っていった。
そうして肉まんを買った私たちはコンビニを出てそれを頬張る。先輩は一口皮をかじり、肉まんじゃ、と言葉をこぼす。私も同じように一口肉まんを口にして、肉まんですね、という。
「寒い日は美味しいんですよ」
「寒いだけかのう?」
「どういう意味ですか?」
「そうじゃのう、おお、丁度良い場所があった」
そう言うと彼はコンビニの近くにあるフェンスにもたれかかる。私も同じようにフェンスにもたれかかった。体重がかかる度、フェンスはぎしり、と悲鳴をあげる。そんなことはお構い無しに、先輩は立ち上る湯気とまばらに光る星空を眺めながら、嬢ちゃんや、と口火を切った。
「我輩はな、嬢ちゃんが軽音部に来てくれてとても感謝しておるんじゃ」
「部員じゃないですけどね」
「まあそう言うでない……わんこがな、7時近くになるとそわそわしはじめてのう、足音、嬢ちゃんちょっとうるさいじゃろ?で、わんこは耳がいいじゃろ?足音を聞くとな、嬉しそうに顔をな、こう、にやっとな」
「すいません話の腰折って申し訳ないですけど、足音、そんなうるさいですか?」
「……して、嬢ちゃんも嬉しそうに、大神君いますか!って駆け込んでくるじゃろ?」
私の質問を笑顔で封殺しながら朔間先輩は話を続ける。ノックしてますけど、と私が口酸っぱく指摘すると、朔間先輩は呆れたように首を横に振り、嬢ちゃんは一言多いから我輩の話が終わるまで食べておくれ、と無理やり持っていた肉まんを私の口元へ押し付けた。
「老婆心、と言われたらそこまでなんじゃが、どうにも歯がゆくてのう」
「むぐう」
「夜遅くになるといつも軽音部にくるのはなぜじゃ、嬢ちゃんほどなら送ってくれる人なんてごまんといよう」
「むむう」
「わんこの事、少しだけ考えてやってくれんか」
そう語りかける間も朔間先輩は私の口に肉まんを押し付けっぱなしだ。発言はおろか呼吸もうまくできない。このまま食べきってその長い指に噛み付いてやろうか、と口元にある皮の部分から手始めに頬張ると、朔間先輩は嬉しそうに、餌付けしてるみたいじゃ、と笑った。
「よしよし、おとなしく話を聞いてくれてありがとう、いい子いい子してやろう」
「遠慮しますし、物理的に塞いでたのは先輩じゃないですか」
「そう怒らんでおくれ、我輩は、すこしわんこと向き合ってほしいと伝えたかっただけなんじゃから」
大神君と、私。たまたまあの時助けられて、たまたま一緒に帰るようになっただけの関係だ。別にその間に特別な感情なんてない。大神君もきっと私が来るから構ってくれているだけだし、私だって送ってくれるよって言ってくれてるから一緒にいるだけだ。
――それは、本当?
「好きじゃなきゃ、だめなんですか。好きじゃなくても、一緒にいたいだけじゃ、だめなんですか」
口元についた肉まんの皮を指で舐めとりながら先輩を睨みつける。先輩は余裕そうに笑みを浮かべながら、私の言葉を待っている。
「恋愛じゃなきゃだめなんですか、別に大神くんのこと、好きとかそんなんじゃないですし、一緒に帰ってくれるから帰るだけで、大神くん、乱暴だし、腹たつことばっかり言うし、思いやりはないし、すぐ文句ばっか言うし」
「ほう?なら嬢ちゃんにはわんこは、乱暴で、口が悪く、思いやりがない」
とまで朔間先輩は続け、はたりと言葉をとめて、あながち間違ってはおらんな……?と首をひねった。
「でも一緒にいたいんじゃろ」
「そ、それは」
言い淀む私の背中を押して、朔間先輩は穏やかに微笑みを浮かべた。なあに、少しでいい、考えてあげておくれ。そう言うと大きく彼は伸びをして、今まで来た方向へと踵を返した。
「え?!先輩どこ行くんですか?」
「うっかり思い出したんじゃが我輩の家逆方向じゃったわ」
「はあ?!うっかりにもほどがあるんですけどほんとなんなんですか!」
「嬢ちゃんも気をつけて帰るんじゃぞー」
送ってくれるんじゃなかったの。ずるりとずれるスクールバックを再度構えなおして、私は大きく息を吐いた。なんだか疲れてしまった。遠ざかる先輩の後ろ姿を見ながら一つため息を吐いて、私も家を目指して歩き出す。
大神くんか。一緒にいたい気持ちは好きなのだろうか。例えば大神君に彼女ができたとして、それは、あ、ちょっといやかも。彼女ができるというより、彼女と帰るから一緒に帰れないよってのは好ましくない。いや別に一人で帰れるし。夜道だってこうして一人で帰れてるし。少し寂しいだけだし。でも一緒に肉まんとかたべれなくなるのかなとおもうと、少しだけ、世界が潤む。大神君に彼女ができたら、それはいやだ。今みたいに一緒に入れないのはいやだ。これは恋なの?それとも、ただの独占欲なの?頭をどれだけ回しても、深く気持ちを掘り起こしても、見当たらない回答に、私はぐすりと鼻を鳴らした。
間違いないのは、一緒にいれなくなるのは、嫌ということだけだ。