恋を始める。_02
最近では校舎からの明かりの有無は確認していない。午後7時。その時間を回ると私はどんなに仕事が押してても帰り支度を始め、そのまま軽音部の部室へと向かうようにしている。オレンジ色の明かりが漏れてなければ引き返す。漏れていれば……。私が階段を駆け上がり廊下を確認すると、すでに薄暗くなった廊下にオレンジの明かりがぼんやりと灯っていた。小走りでそこへと向かい、一つ深呼吸。そして私は軽音部のドアを三回、控えめにノックをした。あいておるよ、ドアの向こうから朔間先輩の声が聞こえる。私は息を整えて軽音部のドアを開けた。「もう7時か、ほれわんこ、ご帰宅の時間じゃよ」
「チッ、いい加減一人で帰れねえのか」
「そう言いながら律儀に待ってるんですよね先輩って」
葵くんの挑発に大神君は軽く牙を向いたが、私を見るなり、一つ舌を打って帰り支度を始める。じいとその様を眺めていると、葵くんはにこにこと私に笑いかけて、ねえ先輩、俺どっちかわかります?と問いかけてきた。もはや恒例となったどっちの葵くんでしょうクイズの勝敗は今の所五分五分である。だって彼らったら、わざわざピン止めの位置をすり替えたり、互いの口調を入れ替えたりするんだもの。私がううん、と首をひねると、朔間先輩が楽しそうにくすくすと笑う。今日は難問じゃのう、と一言。いつも難問なんだけどなあ、と彼を凝視すると、葵くんはひとつウィンクをこぼして、わかるかなあ、と嬉しそうに声を上げた。
「『ひなた』だろ」
そう言ったのは私ではない。帰り支度を終えた大神くんは私の手首を掴むと、つまんねえことしてねえで帰るぞ、と乱暴に腕を引いた。私がちらりと葵くんの方に目線を投げると、彼はにこやかに笑みをこぼしながら、正解ーと間延びした声を上げた。
「ちゃんと嬢ちゃんを連れて帰るんじゃぞ」
「また明日ねー!先輩方!」
二人に会釈を返す間も無く、大神君は私を軽音部室から連れ出してしまった。手を引きながら黙って歩く彼に、なんでわかったの?と問いかけると、におい、と彼は一言そう言った。彼だからできる芸当だ。
あの日ーー私が階段から飛び降りた日ーーから、たまに私たちはこうして一緒に帰っている。今日みたいに部活帰りだとか、ユニット練習帰りだったりだとか、状況はまちまちだけれど、こうして大神くんに腕を引かれながら帰ることが多くなった。付き合うとか、好きとか、そういう感情はなくて、この彼との奇妙な距離感が私は非常に居心地が良かった。
冬の空気は少しだけ冷たくて、風が頬に当たるたびにぴりぴりと肌が痛む。早く春が来て欲しいねえ、と私がぼやくと、花粉が飛ぶだろ、と彼は眉根を寄せた。そういえば大神君は花粉症だったっけ。花粉症は春が鬼門だからなあ。去年の春のマスク姿の彼を脳裏に描く。そういえばいつも手元にティッシュを持っていたっけ。そうかあれからもう、一年が経つのか。
「大神君」
「なんだよ」
「肉まん」
「太るぞ」
特に寒い日は、大神君と近くのコンビニに寄って肉まんを食べることが多い。今日も例に漏れず、雑言を吐く大神君をコンビニへと誘う。商品棚には目もくれず、二人でレジの元へ。いらっしゃいませ、と笑顔をこぼす店員さんに、肉まん二つ、と私は言った。店員さんは、かしこまりました、とまた笑顔を浮かべ、温めてある肉まんをトングで取り出してくれだ。財布から二人分の肉まん代を出すと、大神君は私の財布の中に自分の料金分小銭を落とす。おごるのに、と口を尖らせる私に、いらねえよ、と彼は一つ、頭を小突いた。
肉まんを手にした私たちはそのままコンビニの外へ。コンビニの中で温まったせいか、外気の冷たさにぶるりと身を震わせた。カイロ代わりに両の手で肉まんを包むと、手先からじんわりと優しい温もりが伝わる。大神君も両手で肉まんを包んで口に運ぶ。私もそれに倣うように肉まんを食べ始めた。おいしいねえ、私が言葉をこぼすと、そうだな、と大神君は少し照れくさそうに言った。