恋を始める。_04
午後7時。いつもよりもおしとやかに階段を駆け上り軽音部室をノックする。あいてますよー、と今日は葵くんの声が届く。私が軽音部のドアを開くとそこにはいつも通り葵くんが一人と、ギターを鳴らしている大神君と、譜読みをしているのか楽譜を片手に佇んでいる朔間先輩がいた。「よう来たのう」
私の姿を見るなり朔間先輩が嬉しそうに駆け寄るので、大神くんは驚いたように目を瞬かせながら、
「おいテメエ近づいてんじゃねえよコラ!悪影響だろうが!」
と声を荒らげた。朔間先輩はなんてことないように笑いながら、嬢ちゃんと我輩一緒に肉まん食べる仲じゃから大丈夫大丈夫、とへらりと笑みを浮かべる。なんのことか合点がいったらしく、大神君は不機嫌そうに顔を歪ませて、
「んだよ……」
と一言呟くと、苛立たしそうにギターをかき鳴らし始めた。葵くんは嬉しそうにそんな大神くんの姿を見て笑い、近くにあるギターを同じように鳴らし始めた。突然始まったセッションにうろたえていると、朔間先輩はそんな私を肘でつついて、耳元に口を寄せる。
「して嬢ちゃん、考えてきたのかえ?」
「ちょっとだけ、考えてもわかんなかったですけど」
「けど?」
「多分好きなんだと思いますが、まだ、言わないことにします」
「急いて事を仕損じるとは言うが、後手に回りすぎるととり逃してしまうぞ?」
「うーん、でもまだ、いいんです」
二人で小声で密談しているのを目ざとく見つけた大神君は、困ったように顔をしかめて、
「今日は吸血鬼野郎と帰るのかよ」
と言った。その表情があまりにも不機嫌だったから、思わず吹き出してしまうと、大神君は何笑ってんだよ!と苛立たしそうに声を張り上げた。
「今日も大神君と帰るよ?」
私がそう言うと、彼はそうかよ、とだけぶっきらぼうに言い、ギターをケースに直す。もう帰っちゃうんですかー?と葵くんが言うので、私はへらりと笑って、また明日も来るから、と肩をすくめた。明日も待っておるよ、と朔間先輩。いい加減一人で帰れるようになれよ、と大神君はぶちぶちと文句を言いながら、鞄を持ち上げ、そのままこちらへずかずかと歩み寄った。そしていつものように私の手首を掴んで、今日はひとつ、朔間先輩をなめつけて強引に私の手を引いた。
「帰るぞ」
お疲れさまですーと葵くんの声、気をつけて帰るんじゃぞーと朔間先輩の声。相も変わらず会釈の隙すら与えず、大神君は私の手を引いて部室を出て行く。
好きだとか、愛だとか、私にはまだわからないけどこうして強引に手を引くのは後にも先にも大神君だけがいいし、できればずっと、こうして引っ張ってほしいと、手を引かれながらそんなことを思った。あれ、もしかして私、考えている以上に大神くんの事が好きなのかもしれない。
「今日さ、肉まん食べて帰ろうよ」
私の一言に彼は、そうだな、と一言。そして、太るぞ、と言葉を続けて、それでも尚手を離さずに靴箱へと向かう。今や足並み揃った二つ分の足音は、同じリズムを刻みながら、誰もいない廊下へのびのびと響く。リズムを決して崩さぬように、崩しても、元に戻せるように。私は今日から、恋を始める。