恋を始める。_01
なにやってんだ馬鹿!そう言われたのは随分と前だった気がする。あれは打ち合わせや衣装の企画や、とにかく1日にこれでもか!と仕事が集中した日で、ようやく全てが終わった頃にはどっぷりと日が暮れていた。ポケットに入れっぱなしだった携帯を見ると母親から鬼のような連絡が入っていたり、そもそも時計がいつもの帰宅時間をゆうに超えた時刻を表示していたりと、とんでもない事態に私は音を立てて息を飲んだ。慌ててカバンに資料を突っ込んでコートとマフラーをひっつかみ教室を出ると、いつもは明るい喧騒に満ち溢れた廊下が、ひどく薄気味悪い表情を浮かべ私を待ち構えていた。ところどころ消灯されているせいだろうか、それとも誰もいないからだろうか。ホラー映画に出てくるような雰囲気に、私は二三歩、後ずさる。が、立ち止まっていても仕方ない。私は小走りで廊下を駆け抜けた。
いつもと表情を変えた廊下への恐怖感か、それとも焦燥感からなのか、3階、2階と階段を駆け下りるたびに気持ちはどんどん急いていった。下駄箱に続く1階の廊下が見えてーー今考えると非常に馬鹿なのだけれどーー私は大きく階段の縁を蹴った。なんとなくだけど、飛び降りれるような気がしたのだ。
もちろんそううまくいくはずもなく、前に飛ぶつもりだったはずが重心が大きく前へ崩れる。ハイスピードカメラで撮ったようなゆっくりと移り変わる景色に、本能で死を覚悟して身を強張らせる。ああ、齢17歳。人生まだまだこれからなのにここで終わるのか。来たるべき鈍痛に備えて強く目を閉じると、叫ぶように誰かが私の名前を呼ぶ音と、腰元から強く引かれる感覚、そして浮遊感があれよあれよと襲ってくる。恐る恐る目を開けると、そこには薄ら汗をかいて息を切らしている大神君の姿があって、目があうや否や、危ねえだろ!と彼は怒号を放った。
「あ、ありがとう、ございます」
彼に支えられている事に安心したのか、身体中から力が抜けていく。その場にへたり込む私を大神くんは器用に片手で引き上げて、ほらしゃんと立て、と苦言を呈す。
「走り抜けるから何事かと思ったら、急に飛び出しやがって」
「ちょっと急いでて……」
「急いでたからって飛び降りる馬鹿がいるかよ」
そうして私を見て、いたな、と一言。普段なら文句の一つでも口にするところだけれど、私はただただ頭を垂れて、ごめんなさい、と言葉を口にするしかできなかった。ようやく頭が恐怖感に追いついたらしく、指先が小刻みに震える。油断したら、泣きそうだ。ばくばくと音を立てて動く心臓がやけにうるさい。
立ち尽くす私に埒があかないと思ったのか、大神君は苛立たしそうに舌打ちをすると乱暴に頭をかき、
「急いでんだろ、帰るぞ」
と私の手を引き歩き出した。
「大体こんな遅くに一人で帰ろうとすんなよ」
「ご、ごめんなさい」
薄暗い廊下に、リズムの揃わない足音が二人分。大神君は下駄箱の前まで来るとようやく私の手を離して、外履に履き替え出した。私も小走りで靴箱へと向かい外履を取り出して履き替える。大神君はごつごつした靴を履いてるくせに、私がローファーに履き替えた頃にはすでに入り口前にいて、じいとこちらを見つめていた。
小走りで彼の方へ駆け寄ると、大神君は私が追いつくよりも先に踵を返して歩き出してしまう。置いて行かれないように歩調を早めると、彼は校舎から数歩歩いたところで歩みを止めて、校舎を振り返る。
「あそこ」
彼が一つの窓を指をさす。私は彼の指し示すまま目線を投げる。
「軽音部の部室。テメェが遅くなった時、あそこの明かりがついてたら、来い」
「え?!どういう意味?」
「自分で考えろ馬鹿」
当初は本当に意味がわからなかったのだが、彼の言葉足らずな優しさに気がついてから、ようやくその意味がわかった。ようは、一人で帰るな、という事だ。明かりがついているということは誰かが活動しているという事だし、それは自分か、はたまた先輩か後輩か日によって違うけれど、誰がいたって一人で帰すよりはましだと、そう判断したのだろう。