いつか夜が明けたら迎えに来て_10

「おかえりー」

 見上げれば大階段の上でマモンが手を振っていた。ただいまと、RADはどうしたんだと、言いたい気持ちも掠れた声では何も出ない。言葉に詰まる私をよそに、彼は軽快に階段を下りてくる。瞳を伏せれば、妙に軽々しく、私の肩に腕が回った。
 「つうか聞いてくれよ昨日さあ」だとか「今朝ベールがそっち行ったろ?」だとか、何も答えない私に彼はどんどんと言葉を積み重ねていく。よく回る口だなと思う。最低限の頷きだけ返しながら、緩い足取りで階段を上る。普段はつれない返事をすれば怒る彼だけれど、話したいことがたくさんあるのか次から次へと話題を取り返す。私はそんな言葉を右から左へ。マモンが何かを喋っているな、程度の認識で、自室を目指す。

「なにかあったんだろ」

 自室に辿りついて部屋へと戻ろうとした瞬間、無理矢理身体を引き寄せられた。後ろから抱きとめられて、踏ん張る体力が無い私はそのまま彼の胸へと倒れ込んでしまう。思いのほか分厚い胸板に驚きながらも、部屋へと戻る扉のノブからは手を離さない。
 出来るだけ平常心で、小さく深呼吸して紡いだ「なんでもないよ」の言葉。即答するように「なんにもないことないだろうが」と怒気の孕んだ言葉が返された。

「ほんとになんでもないよ……体調が悪いから、部屋に帰るね」
「俺もいく」
「ごめん、今はひとりにして。今日もご飯はパスって皆に伝えといて」
「昨日も食ってねえだろ」
「人間は食べなくても生きられるんだよ」
「んなわけ……」

 言葉が途切れた瞬間に、私はマモンの方へと振り返り、軽く彼の両肩を押す。思いのほか、拘束は簡単に解けた。マモンはなぜかとても傷ついた顔をして私を見下ろしており、それでも取り繕わなければならないと、私は彼に出来るだけ上手な笑顔を作って「大丈夫だから」と返す。
 開く口と飛び出す言葉を聞く前に、逃げるように部屋へと戻った。足音はしないからきっと彼はまだ扉の前にいる。それでももう限界だった私は、そのまま扉に背中を預け、沿うようにずるずると座り込んだ。
 だいじょうぶだから、と唇で形作る。見慣れた部屋は涙で滲み、瞬けば涙がぼろぼろと落ちていく。
 だいじょうぶだから。だいじょうぶだから。
 呪詛のような、祈りのような言葉だ。言葉が空を切るたびに、何度も何度も涙があふれる。人間って水分なんだなと冷静に分析する私の向こうで、扉を開けられなかった意気地なしの私と、消えてしまった可能性と成り代わってしまった『私』への罪悪感が、身体を蝕んでいく。

 しらない。もうかんがえたくない。

 嗚咽が漏れる。鼻水をすする音。息を吸う音。子供みたいに泣きじゃくる声だけが、静まりかえった部屋へと響く。泣いても何も変わらないなんてわかってはいるのに、許せない自分自身への憤りが渦巻き、自責の念が私を押しつぶす。

「なあ」

 泣き声で溺れる部屋の中で、遠慮がちな声が聞こえる。扉越しに緩く振動。ノックとは違う、頭上からの振動に私は扉を見上げる。

「……なんとか言えよ」

 こんなことがあったなと、思い返す。あれはそう、ベルフェが捕まり、ベールとこっそり館へと帰ったときだ。あのときとは立ち位置は逆だけれど――籠城するマモンと、なんとか話をしたい私。もう随分と懐かしい。でも私はもう何も言えない。言いたくない。どう関わっていいかわからない。返事の代わりに涙はぼろぼろと流れ続け、またもう一つ、振動で扉が揺れる。

「無視すんなよ」

 無視すんな。あのとき、そう言ったのは私の方だった。唇だけで繰り返せば、随分と馴染みのある言葉で笑いが漏れてしまう。そもそもあの日より前――マモンにベルフェのことを相談していたらこうはならなかったかもしれない。ルシファーに直接逆らうことは決してしない彼だけれど、なんだかんだで知略を巡らすのは得意だ。
 ――そんなもしもを頭の中で紡いで、自分自身が嫌になってしまう。それでも、消えてしまった可能性に何度も何度も縋り付いてしまう。

「……」

 ほんの少し扉を開ければ、廊下の光が一筋、部屋に差し込んだ。座り込み、泣きはらす私の顔に面食らったマモンは慌てたように部屋へと入り、すぐに扉を閉めた。そうして泣き顔を隠すように抱き寄せると、今までよりも一等強く、腕に力を込める。
 痛いくらい、寄せられている。瞼が彼の首元に当たり、あふれる涙がマモンの肌を濡らしていく。それでも厭う様子を見せない彼は、背に回す腕の力を強めながら、絞り出したような声を小さく漏らした。

「そんななるまで、なんで何も言わねえんだよ」

――なんで俺になんも相談してくれねーんだよ。

 言葉が響く。聞き覚えのある声の向こうに、あの日のマモンが浮かんでは消えていく。あの日、茶化してしまったけれど本当に伝えたい言葉は何一つ伝えられなかった。ベルフェのために、ベールのために、そして私を随分と心配してくれたのに。明日が当たり前にあると信じていたから、素直になるのが照れくさかったから。ちゃんとあの日、伝えればよかったんだ。

「俺はおまえの」
「初めての男?」

 ぐずりと鼻を鳴らせば、一瞬、沈黙が走った。どうやら言葉を奪われると思ってはいなかったのだろう。虚を突かれたように「あ、いや」だの「その」だの言葉を漏らす彼に、私はぼろぼろ涙を流しながら笑う。

「うん、知ってる」

 知ってる。あの日ちゃんと伝えてくれたから。そしてそれがとても嬉しかったこと。私はちゃんと伝えられなかったけれど。
 ちょっと痛い、と言えば、マモンの力は簡単に緩んだ。ゆっくりと身体を離せば、マモンの曇った顔が目に入る。二人で床に座りながら、一体何をしているのだろうか。ぐしゃぐしゃの顔で笑えば、マモンも困ったように笑って「すげえ顔」と私の額に自分のそれをこすりつける。「うるせいやい」と返しながら、私はマモンの肩に額を寄せた。
 ふと見上げれば、彼の耳に見慣れたイヤリングが見えた。『強欲』の悪魔が身につけるには随分チープでうさんくさい真珠のイヤリングが、褐色の耳に飾り付いている。見間違えるはずもない。あれは私のイヤリングだ。棚に目をやれば、確かに小物入れの中にそれは入っている。
 視線の先に気がついたのか、マモンはばつが悪いように視線を逸らした。そうして一言、ぼそりと呟く。

「……おまえから預かった、イヤリングだよ」

 あずかった。瞬く私に「大切なものだから、一つしかないからって押しつけやがったあれだよ」とマモンは言い、尊大に私を見下ろした。当然私にはそんな記憶はない。それでもわかる。経緯はわからないけれど『私』はおそらくマモンに持ってほしいと思い、それを手渡したのだろう。手癖は悪い彼だけれど、そういう線引きはきっちりと引ける男だ。
 だから無性に『私』の欠片がちゃんと残っていることが嬉しかった。ぼろぼろとまた涙をこぼし出す私に「つうかもう一つ見つかったらちゃんと言え!」だの「本物じゃねえしこれ!」だの彼は照れくさそうに文句を並べる。そうしてイヤリングを自分の耳から外すと「両耳揃ってないと不釣り合いだろうが」と私の手にそれを押しやった。

「……ううん。ちゃんとそれ、持っててほしい」

 押し返せば、怪訝そうな顔をされた。マモンの胸に頭を寄せれば「お、おう」なんて動揺の言葉、そして「しゃーねえな」なんておどけた言葉が継がれた。胸越しに、響く振動に私は首を縦に振る。それは『私』がマモンに持っていてほしいと願ったものだから。きっと、私が手にしてしまうとだめなものだから。

「その代わりに、お願いがあるの」
「なんだ?」

 言葉が跳ねる。よほど頼られるのが嬉しいのだろうか。素直な反応に笑みを作れば、彼の制服のズボンにひとつふたつ、涙の染みが浮かんでは濃く消えていく。

「もう一度お城へ行きたいの。ついてきてくれる?」

 雨は、もう止んでいた。

←09  |top→11