いつか夜が明けたら迎えに来て_09
雨は降り続いていた。これほど長く魔界に降る雨は随分と珍しく、あちこち大きな水たまりが出来上がっていた。瞬くように広がる波紋。しとしと。傘に落ちた滴が跳ねては伝う。喧噪の町も今日は静かで、カフェは雨宿りの客で大賑わいだ。
何も考えなしに館を出てきてしまったけれど、一体どうやって扉の前へ行こう。あの扉が嘆きの館にあればよかったが、残念ながらあの扉があるのはバルバトスの私室だ。彼の私室への道はなんとなく覚えてはいるけれど定かではないし、大体施錠されている可能性もある。
それでも行かなければいけない。焦燥感に駆られた私は、おそらくRADへ登校してもぬけの殻であるはずの城を目指す。大通りを抜けて、まっすぐ。眼前に見える城は煙る雨でも随分と存在感があった。
「そろそろ来る頃かと思っていたよ」
突然の来訪に、殿下はそう言って私を迎え入れた。本来ならRADへ行かなければならない私の姿に嫌悪感ひとつ出すことなく、和やかに迎え入れてくれる。その隣にはバルバトスが佇んでおり、私の姿を認めると恭しく頭を下げた。相変わらずきれいな所作だ。居住まいを正されるような気分になって、私もまっすぐ殿下とバルバトスに頭を下げる。殿下は朗らかに笑いながら「そんなにかしこまらなくてもいいよ」と微笑んだ。
「扉を調べに来たんだろう?」
殿下はそうして、口火を切った。まだ何も言っていないし、この件は誰にも口外していない。なんなら朝のベールの来訪で心に決めた事柄だったから、私は酷く驚いて何度も目を瞬かせた。
しかし殿下はそんな私の様が面白いのか快活に笑って「わかるさ」と一言。心の中でも読まれているのだろうか。身構えれば、彼は相変わらず微笑み私を見つめている。
「きみはあのとき、未来から来たのだろう? おそらく、ベルフェゴールを助けに」
「全部知って……?」
「いえ。全部知って、は少々語弊がありますね」
「ああ。あの一件が私も気になってね。バルバトスに調べてもらったんだ」
なるほど。過去も未来も観測できるということは、私の過去も調べればわかるということか。ほんの少しだけ、彼らは全て知って、知った上で過ごしているかと思っていたので呆気にとられてしまった。
そんな固まる私に「案内してあげてくれ」と殿下は一人踵を返す。残されたバルバトスはやはり殿下に恭しく頭を下げて、そうして「行きましょう」と私に微笑んだ。どう説得しようか考えていたのだけれど、結果オーライと捉えることにしよう。
去りゆく殿下の方へと会釈を投げれば、ふと振り返った彼の目に留まり悠々と手を振られてしまった。相変わらず掴めない人だ。私はもう一度殿下へと会釈を返し、バルバトスの背中について歩いた。
「こちらが、あなたが来た扉です」
そうして彼の自室へと案内されて、件の扉の前まで来てしまった。所要時間は城について十数分。心の準備なんて全く出来ていない。彼が言うことが本当ならば、この扉の向こうの『可能性』はもう消えてしまっている。そうして私がこの扉をノックしてくぐれば――一体どうなってしまうのだろうか。消えた彼らの元に帰り、来ない未来を延々と過ごすのだろうか。それとも『私』みたいに、煙に消えてしまうのだろうか。
対峙しようと意気込んで来たものの、膝は随分と笑っていた。扉のノブにかける手も震えている。
「差し出がましいようですがお伝えします。この先は可能性が消えた世界ですので、貴女の存在は保証できません」
迷っている私を見抜いたのか、バルバトスは神妙な顔をしてそう呟いた。僅かに悲痛の色が滲んでおり、私も下唇を強く噛む。
この扉をくぐり抜けたら、おそらくもう私はここへ戻ってくることはないだろう。いや、戻るなんて言い方はおかしいな。元々私はここにいるはずの無い存在で、今から元の世界へと戻るのだから。だから正しいと言い聞かせて、バルバトスに頷いてノブを握る。
「……もう一つだけ、お伝えさせてください。貴女はもうこの世界の一部だということを」
鼓膜に、言葉が擦った。
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