いつか夜が明けたら迎えに来て_08

「少しは食べた方がいい」

 朝、そう言って強引に扉を開けたのはベールだった。気がつけばおとといの夜から何も口にしていなくて、人間って食べずにここまで元気でいられるのか、と思う反面で、水さえ飲めば一週間は生きていける、なんて知識を思い返した。案外生命力はしぶといものだ。しかしながら精神はぐずぐずに崩れており、何も食べる気がしない。
 ベールが持ってきてくれたのは、よく朝食で出される料理だった。皿の大きさに量が不釣り合いなこと、そしてすでに食べた跡があることを鑑みると、おそらくベールが私用にいくつか残してくれたのだろう。
 ルークを匿っていたときにそんなことがあった。あのときは皆、事情を知らなかったので酷く驚いていたが、今回はそんなことはなかったらしい。皿の上にはいくつか違う種類の野菜や果物。おそらく皆の朝食の中から、これも持ってけと乗せてくれたのだろう。私はその中のひとつをつまんで「これだけでいいよ」と笑う。

「それだけじゃ腹が減るだろう」
「大丈夫だよ。あまり食欲がないの」
「昨日もそうだっただろう? ……人間は食べなくても大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫大丈夫」

 のらりくらりと言葉を躱してフルーツを口に放り込む。奥歯で噛めば容易く実は弾け、酸味が口内に広がった。味わうよりも飲み込むが近い形で喉奥へと流し込めば、ベールの心配の色がさらに濃くなった。

「大丈夫だから、これ食べていいよ」

 そう伝えれば、彼は私と料理を交互に見て、そうして肩を落として料理に指を伸ばす。
 素直に落ち込む姿に、申し訳なさがただただ募る。しかし食指が動かないのだ。胃に生唾だけを流し込んで、私はベッドの上で三角座りをする。起毛した靴下がもう随分とくたくただ。新しいものを買わないとな、と思う反面で、勝手に買い換えていいものなのだろうかと、どこか他人事のようにそれを見下ろす。

「どうした?」

 ベッドが僅かに沈む。緩い衝撃に顔を上げれば、料理を食べ終えたベールが隣に座り、眉を寄せてじっとこちらを見ている。あまりの真直な視線に居心地が悪くなり「……何か食べる?」と話を逸らせば「それはおまえの方だろう」と彼は呆れたように息を吐く。

「困ったことがあったら言ってくれ。家族だろう?」
「正確には親族?」
「そうじゃない。そういう意味じゃないのはわかっているだろう」

 茶化すような言葉も、ベールには通じない。彼のこの愚直なほどの視線が好ましいと思っていたが、余裕のない今では少し困ってしまう。
 僅かに苛立ちが滲む彼の声にへらりと笑ってみせれば、眉間の皺がさらに寄った。ベールが心配しているのは一体誰だろうか。投げやりな思考に、自分が嫌になってしまう。

「……ちょっと前にさ、ルークを匿ったことがあったじゃない」
「……? ああ」

 そうして、私が今思い返しているのは一体『誰』なのだろうか。マモンにそそのかされてプリンを食べてしまったこと。家出したルークを匿ったこと。ベルフェの一件以外、起こったことの大筋はきっとここでも同じだろうけど、その体験を私ともに歩んできたのは『彼ら』でもないし、『私』でもない。それはどれも本当に小さな、取り留めの無い選択肢の一つだ。私が選び取って『私』が選び取らなかった。私が選ばず『私』が選び取った選択肢が重なり、ずれて、溝を作る。

「そのとき、私がルークに伏せって言って怒られちゃったの、覚えてる?」
「そんなことあったか?」

 ずっと食べないまま、ここで悶々とは暮らせない。どこかで私はこの感情と、この環境と蹴りをつけなければいけない。そうでなきゃ前に進めないし、彼らにも心配をかけ続けてしまう。

「……いや、記憶違いかもしれないな」
「マモンに言ったんじゃないのか?」
「そうかも」

 笑顔を作れば、胸が酷く痛んだ。気を緩ませれば泣いてしまいそうだけれど、せっかく訪ねてきてくれたベールに心配をかけたくはない。それがベルフェの一件より前に過ごした彼とは違っても、一件から後、一緒に過ごしたのは紛れもなく彼らなのだから。

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