いつか夜が明けたら迎えに来て_02
妙なことが続くと思っていた。記憶違いがあったり、認識のずれがあったり、誰と話しても会話の細かいところで違和感を覚えてしまうのだ。それはマモンだったり、ルシファーだったり、アスモだったり、誰と話しても起こってしまう。
なんだか狐に化かされた気分になるようなものから、取り留めの無いものまで。ピンキリで起こるそれを強く認識したのは、レヴィが「そういや契約したとき、やけに強気だったよな」なんて言葉だった。覚え違いがなければそんなことないはずだったのだが「いや、最近こいつ物覚え悪いから」なんてマモンの言葉に反論の余地を奪われてしまった。
「人間って低スペック?」
「こいつだけだろ」
失礼な言葉の数々に、だけれど返せるエピソードもさほどない私は、ただただ唇を尖らせることしかできなかった。
「それはきっと、そうなのでしょう」
魔界は常闇だ。宝石のようにちりばめられた星空の下、迷路のような生け垣の真ん中で私たちは二人で昼食を食む。普段はディアボロ殿下に付き添っているバルバトスが単体で休んでいることは珍しい。バスケットに入ったお手製であろうサンドウィッチを食む彼は、随分と絵になる。
しかし、そうなのでしょう、というのはどういうことなのだろう。なんとか食堂で買えたパン(よくわからない甘いクリームがふんだんに包まれている)に噛みつきながら、妙に物知り顔なバルバトスを見る。微笑を絶やさない彼はナフキンで口の周りを拭き、もう一口サンドウィッチを食む。いろいろな具材が入っているのにも関わらず、何一つ零さないのが彼らしい。流暢なその動きを真似ようと噛みつけば、あらぬところからクリームが出てきてしまった。
すかさず差し出されるナフキン。お礼を言ってクリームを拭き取れば「まだついてますよ」と彼は口元を指さす。
「ありがと。――で、きっとそうなのでしょうって、どういうこと? レヴィが言うように私って低スペックなのかな……」
「そうではないと思いますよ。そもそも貴女はここではないところから来たのでしょう?」
「ここではないって人間界ってこと?」
「いいえ、その後です」
嘆きの館のことを言っているのだろうか。含みにある言葉に思い当たる節がなくて、考えれば考えるほどレヴィの『低スペック』がぐるぐると巡る。悔しい。けど思い至らない。
人間界からやってきて? 今日は嘆きの館から登校して?
記憶の糸を辿りながら、パンに噛みつく。圧に負けたクリームがまた、パンの隙間から顔を出す。バルバトスはそんな私の様に微笑み、頬についたクリームを拭ってくれた。
なんだか子供みたいで恥ずかしい。肩をすくめれば穏やかな笑い声が鼓膜を擦った。
「ちっちゃい子扱いされてる」
「私たちから見れば、数十年ほどしか生きていない貴女は幼児のようなものですよ」
「寿命がそもそも違うから……」
歳を持ち出されたら何も反論ができない。穏やかな月明かりの下、なぞなぞのような彼の言葉の真意を探る。しかし首をひねっても何も浮かばなくて、パンを食べきる頃合いで、とうとう私は白旗をあげた。
わかんない……、と小さく呟けば、バルバトスは指先についたパンくずをバスケットの中に落としながら、柔らかく微笑む。これは教えてくれる顔だと、私はバルバトスの瞳をじっと見つめる。
「ベルフェゴールの一件を、覚えていますか?」
「覚えてる――ああそっか、私バルバトスの力で過去へと飛んで……」
最後のパンを口の中へと放り込んだ。強烈な思い出だから覚えている。ディアボロ殿下の課題で誰が扉を開けたのかを調べに過去へと飛んだのだ。パンを飲み込めば、バルバトスがカップに入った紅茶を差し出してくれた。至れり尽くせり。こういう所作を一ミクロンでもいいからマモンに覚えてほしいと、私はそれをすすった。
花の匂いが開くそれは、飲み慣れない味だけれどするりと喉へと通り抜けた。大変だったよね。あの思い出を語るときに真っ先に出てくる言葉がそれだ。ベルフェの罪状を少しでも軽くするために過去へと飛んで、真実を暴いて、そして。
――そして?
「……あれ?」
「どうかしました?」
「いや、その……?」
大切な何かを忘れているような気がした。バルバトスを見れば、彼は絶えず微笑んでいる。窓から差し込む橙色の光に照らされたその横顔は優美で、どこか常世のものとは違う美しさを湛えていた。
美しく弧を描く彼の唇が、微笑に揺れる。そうだ、私はベルフェの罪状を軽くしようと過去へと飛んだのだ。彼はなんと言っていた。『帰るためには同じドアをくぐれ』と言っていた。『過去を改変する可能性があるから、誰にも出会うな』とも言っていた。どくりどくりと心臓が揺れる。脅されたわけでもないのに、指先がかすかに震えた。
――私、扉からちゃんと帰ったっけ?
「あ、あの」
「なんでしょう」
「その、わたし、過去を改変して……?」
「あの日も同じことを仰ってましたね。もう一度説明しましょうか」
優美な所作で、彼は宙に線を描く。夜闇のなか、彼の染みのない手袋がやけに眩しい。まっすぐに伸ばされた人差し指を眺めながら、私は息をのむ。
「私の能力は、過去と未来を見通す力。そして何本にもわたる『起こりうる可能性』を一筋選び出して『唯一の現実』にしてしまうのですよ」
「それって、他の可能性はどうなるの……?」
新緑色の瞳が、ゆっくりと細まる。風が吹いて、明るく脱色した彼の浅黄色の髪の毛が、風に揺れて宙になびく。
「消えますよ。貴女もその目で見たでしょう?」
「きえる……?」
喉笛を捕まれたような気分だ。息を吸えば、月明かりで冷やされた空気が肺へと雪崩れ込む。微笑むバルバトス越しに、あの日の自分が見えた。印象の強い思い出が強かったからか、それとも思い出したくなくて頭から消していたかはわからないけれど。
淡い思い出が、濃く、輪郭を取り戻していく。どくりどくりと心臓。息が浅くなるにつれ、くっきりと浮かび上がる。マモンの腕に抱かれて、消えていった自分のことを。
「確かに、消えて……」
「そうでしょう?」
「だったらもともといた時代は」
「もうありませんよ。ここが『唯一の現実』です」
バルバトスはそう言って笑った。まるで取るに足らないことのように、幼子に世の中の通りを教えるように。線を描いていた指先はバスケットの上へ。昼食を片付け出す彼の傍ら、私はまるで縫い付けられたかのように、そこから一歩も動き出せなかった。