Ivory_09

「降ってきやがった!」
「降るなんて聞いてないよー!」
「二人とも、あそこで雨宿りしよう」

 三年生になり、アイドル科ともクラスが離れ、暫く経った八月某日。気まぐれな夏の夕立から逃げるように、私と晃牙くんとアドニスくんは喫茶店へと逃げ込んだ。二人のレッスンに付き合うのも随分と久しぶりで、熱が入りすぎバスを逃してしまったのだ。
 まだ夜も短いこの季節。だったら歩いて帰ろうなんてアドニスくんの提案に乗っかって、なら海辺も寄ろうなんて浮かれて発案したのが運の尽き。突然の雨に降られて、上から下までずぶ濡れだ。
 白濁に染まる町並みの中、ぽっかりと浮かぶ紅のオーニングテントを目指す。ずぶ濡れた身体を厭わずそのまま店内へと転がり込めば「いらっしゃいませ」と穏やかな声色が私たちを出迎えた。

 平日も手伝い人が居ない店内。上品に流れるジャズの音楽に、あっ、と私は足を止める。
 ここは、あの日の。
 ぴたりと止まる歩みをよそに、彼らはそのままレジへと向かう。ずぶ濡れた私たちを見かねて、店員さんが奥からタオル持ってきてくれ、アドニスくんに手渡していた。アドニスくんはそれを受け取り晃牙くんへと渡し――そしてこちらを振り返り、入り口前で動けない私に気がついた。

「どうした?」
「入り口前で立ってたら邪魔になんぞ」
「あ、ああ……そうだね」
「タオルを貸してもらった。お前も拭いたほうがいい」

 そう言えばあの日も、雨に降られてここへとやってきたんだよな。心の奥底にしまっていた記憶が、コーヒーの香りとともに花開く。ブーティではない、固いローファーが床を叩く。タオルを受け取りずぶ濡れた腕を拭えば、彼らの興味は渡しからメニューの方へと移る。どうやら彼らもあまり馴染みの無い単語が多いらしい。「……どれがどうなんだよ」「下に説明が書いてあるだろう」なんて密やかなやりとりが鼓膜を擦った。

「お連れ様も、メニューをどうぞ」

 無人のレジからメニューを手渡してくれる店員さんを一瞥した私は「……いや、私はカプチーノで」首を横に振った。あの味が好きなわけでもない。それでも導かれるように唇はそれを紡いでいたし、店員さんもあの人同じように私の注文を繰り返し、レジのボタンを押した。

 晃牙くんもアドニスくんも思い思いのものを注文し、タオルを返して商品を受け取る。客席がまばらなこともありテーブル席を勧められたけれど、ずぶ濡れのまま座るのも気が引けて、私たちは大きなガラス窓越しのカウンターへと足を運ぶ。スズランのランプの下。植木鉢の前。丁度、あの日と同じ場所だ。大きなガラス窓には、雨に煙る町並みと重なり、私と晃牙くんとアドニスくんが薄く反射していた。

「つうかこんなとこに店があったんだな」
「俺も初めて知った。お前も知ってたか?」
「うーん」

 一拍おいて「はじめてかな?」と応えると「いやこいつは初めてじゃねえぞ」とにやにや笑みを湛えた晃牙くんが笑う。新しい玩具を見つけたようなその色に「初めてだってば」と返せば「本当かあ?」と茶化すように彼は笑う。

「大体こんな大人っぽいとこ、来るにはお小遣いが足りないよ」
「確かに……」

 アドニスくんが声を曇らせる。生徒たちがよく通う学院近くの喫茶店はここよりも四割くらい安いのだ。カウンターに立てられた三角柱のメニューを見つめながら「確かに」とアドニスくんはまた言葉を繰り返す。

「まあこんなとこホイホイいけるのはスケコマシヤローくらいだろうな」

 晃牙くんもこと興味のなさそうに指先でメニューをつついた。三角柱のメニューが揺れる。私はそれを眺めながら苦笑を浮かべた。そうして繋がれていない指先に目を落とす。あの日と殆ど同じ状況――違うのは隣にいる人だけ。
 晃牙くんもアドニスくんもアイスコーヒーを啜りながら「止みそうにねえな」とか「夕立だからすぐに止むとは思うんだが」だとか、心配そうに外を見つめている。あの日はなかなか雨が止まなかった。そんなことを思い出しながら「はやく止むといいよね」と私も呟き、ガラス戸を走る雫を見つめた。

「そうだな。早く帰らないと姉たちが心配をする」
「テメーは大変そうだな。俺は遅くなってもいーけどよ……この天気じゃ散歩も中止だな」
「散歩中止とかレオンくん寂しがるんじゃない?」
「無理に雨の中散歩させて風邪引かせるほうがやべーじゃねえか」
「確かにそうだな」

 いつもよりも密やかに繰り返される会話の最中、白く煙る雨の隙間にあの日の私たちが見えた気がした。お互い手を繋いで、でも目は合わせないで、言葉少なな会話を交わし、コーヒーを啜っていた、私と先輩が。

「あ、そう言えば」

 晃牙くんの一言でそれはかき消される。町並みの向こうにはぼんやりとカプチーノを啜る私と、此方を見つめる晃牙くんとアドニスくんが並んで立っているだけだ。

「もうすぐライブがあるから、テメーも見に来いよ」
「関係者用の席でいいならすぐに準備ができる。久しぶりにUNDEADの全員が揃うライブだから、是非見に来てほしい」
「……そっか、アドニスくん復帰後の初ライブだっけ?」

 嬉しそうに笑う彼らを見つめ、私もはにかんだ。「朔間さんも羽風さんも楽しみにしていて」から始まる話に、何度も相槌をうち、笑う。そう、もう私たちは別の道を歩んでいるんだ。たまたまあの日、お互いの道が交わっただけ。

 舌の上に苦く残るカプチーノ。白い気泡のように儚い想い出。それでもきっと、ここへ来る度、飲む度、褪せずに思い出す。雨の向こう、並んで立つ二人の幻影。
 もしももう一度繋げる未来があったとしても、それはきっと、ずっと先の未来。

「楽しみにしてるね」

 瞼の裏側にあの日の先輩を描きながら、ハンドルに指を掛けた。雨はまだ降り続いていた。 

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