くうねるところにすむところ_08

 もう一年も夢を見せて貰ったのだ。それでもう、十分。ちゃんと話して出て行って貰おう。
 そう結論付けた私が部屋のドアを開ければ、出迎えてくれたのはエプロンを纏ったアドニスくんの姿だった。部屋の奥からじゅうじゅうと何かが焼ける音が響き、アドニスくんは「おかえり」と言うと足早にガス台の方へと戻っていく。
 呆気にとられてしまった私はとりあえず家の鍵をかけて、靴を脱いで……ああ手も洗って、とばたばたと廊下を駆け回る。どうしよう、出鼻を挫かれてしまった。鼻をくすぐる香ばしい香りに、あ、これは豚肉だ、と先ほどまで朔間さん相手に恐縮していた胃が元気を取り戻す。
 いいや今日ちゃんと話すんだ。鏡に映る自分を睨み付けると、私はアドニスくんの元へと歩み寄った。
「アドニスくん、話があります」
「朔間さんに言われたのだろう」
「うん……うん?」
 アドニスくんも何か言われたのだろうか。彼に寄ればレタスを丸々一つ渡されてしまう。私は黙って網棚からザルを取り、一口大にちぎったレタスをそれの中へと放り込んでいく。アドニスくんは隣で黙々と、肉が焼ける加減を見極めている。その表情は真剣そのもので、言おう言おうとしていた言葉がどんどんと喉奥へと引っ込んでいくのを感じた。
「……あのね」
 それでも、もう言わなくてはいけない。べりべりとちぎれていくレタスの音に耳を傾けながら、私は朔間さんの表情を思い出していた。これが最後の晩餐になるのだろうか。こみ上げてくる涙の予感をなんとか飲み込んで、じいと指先に力を込める。ぱり、と小さくちぎれたレタスに「あ」と言葉を落とせば、アドニスくんがこちらを見て小さく口を開けた。当たり前のように私は彼の口にそれを押し込んで……じゃなくて!
「あのね、アドニスくん」
「どうした」
 しゃりしゃりと、彼が口を動かす度にレタスが音を立てる。手慣れた手つきで肉を裏返すアドニスくん。二人で住むようになってから増えた調理器具。何に使うのかがいまいち分からないスパイス。隣で調理する彼の姿がもう無くなるのだと思うと、言葉が喉に詰まって出てこない。
 幾度か口を開閉して、小さく息を吐いた。蛇口を捻りレタスを流水に晒しながら、言うぞ、と生唾を飲み込む。
「……出て行って、ほしいの」
 蛇口を閉じて、か細い声で私はそう伝えた。ぱちぱちと肉の脂が爆ぜる音に紛れて
「嫌だ」
 とアドニスくんが間髪を入れずにそう答える。驚き顔を上げれば、彼は平然と私にツナ缶を渡してくるので、それを受け取り、戸惑いながらも蓋を開けた。そして開けた蓋をもう一度缶の中へと押し戻し中の油を切りながら「嫌?」と彼の言葉を私は繰り返す。
「ああ、嫌だ」
 住居が無くなることを渋られるかもしれないとは思っていた。逆に快諾される可能性も考えていた。だけどこんなにもすぐに拒否を示されるとは思わなくて、混乱した頭で次の言葉を探す。嫌って……私も嫌だけど、でもあなたもアイドルでしょう。私なんかと一緒にいたらいけないんだよ。
 そう思いながらもアドニスくんはもう一度肉をひっくり返していく。じゅうじゅうと香ばしい香りが辺りに満ちる。空腹が刺激されて胃が情けない音を上げる。彼はよくわからないスパイスを手にしてそれを肉に振りかけた。私は油の切り終わったツナから蓋を外して「嫌って……」と口にする。アドニスくんはそんな私を一瞥して、そしてまた肉へと視線を戻す。
「……この前お前が初めて『寂しい』と言ってくれただろう。この一年でお前がそう言ってくれたのは初めてだった。……俺は、とても嬉しかった」
 どうしよう、覚えが無いやつだ。返事をせずに小さいサラダ皿を網棚から取り出して洗い立てのレタスを敷き詰める。アドニスくんはそんな私をやはり横目でちらりと見て、そしてまた肉を見つめる。
「俺は、ずっとお前の事が好きだった。昔からずっとだ。学生時代のお前ならきっと気持ちを伝えても、俺がアイドルだからと聞く耳を持たなかっただろう」
「……今も、そうだよ」
「何もしてなければな」
 肩をつつかれて顔を上げれば、アドニスくんが菜箸で器用に一口大で切った肉を掴んでいた。口元をつつかれて仰せのままに口を開ければ肉が放り込まれる。香草だろうか、爽やかな香りが口に広がり、思わず緩んでしまう頬にアドニスくんは破顔する。
「『男は胃袋から掴め』……と、この国では言うのだろう。姉たちからそう聞いた」
「まあ、言うけど……」
「どうだ、うまいか?」
「……おいしいです」
「よかった」
 アドニスくんはそう言ってガス台の火を止める。手慣れた手つきで皿を取り出し、肉を一皿一皿盛り付けていく。私も慌ててサラダ皿に残りのレタスを敷き詰めて、真ん中にツナを盛って、彼の後ろを追った。
 ベッド前の正方形のテーブル。二人分の料理を並べればいっぱいいっぱいになってしまう程度の広さのそれに、大皿のお肉料理と、サラダを並べる。アドニスくんは茶碗を取りご飯をよそい、そして私へと手渡すので、私は机の上にそれらと、二つの不揃いのグラス。そして冷蔵庫に置いていた麦茶ポットを取り出し、グラスに注いだ。
 完全にいつもの晩ご飯だ。大切な話をしていたはずなのに、と彼を見れば、アドニスくんは当たり前のように私の対面に腰を下ろして、射貫くようにこちらを見つめる。
「正攻法でお前に気持ちを伝えれば、伝わらないことはわかりきっていた。だからこの一年ずっと、俺がお前の隣にいることが『当たり前』になるように振る舞っていた」
「……なにそれ」
 そう言いながら私も彼の前に座った。食べてくれと言わんばかりの香りが鼻腔をくすぐるけれど、とても手をつける気にはならない。正座をし、まっすぐアドニスくんを見れば、彼も居住まいを正してこちらをまっすぐ見据えた。
 こうして曖昧な暮らしを続けてきたけれど、まっすぐ彼の瞳を見たのは今日が初めてかもしれない。月のように光る彼の瞳を見ると、緊張に弱い胃が、また萎縮するのを感じた。アドニスくんはそれを察してか表情を幾許か和らげて「堅くならないで聞いて欲しい」と呟く。その一言で随分と安心してしまう私がいて、随分と驚いた。
「お前が俺のことを男として見ていないかもしれないと悩んだ日もあったが、あの日、寂しいと言ってくれたおかげでようやく勇気が出た」
「待って」
「待たない。聞いてくれ。俺はお前が好きだ」
 好きなんだ。そう連ねられた言葉を飲み込む前にアドニスくんが私にお箸を手渡す。戸惑いながらも受け取れば、彼は嬉しそうに微笑み、そして口を開いた。
「一緒に暮らそう。こうして、ずっと」
「でも朔間さんが」
「朔間さんはおそらく別れろとは言わなかっただろう?」
 アドニスくんの言葉に私は口ごもる。確かに彼は別れろ、とも、くっつけ、ともどちらも言ってはいない。ただこの曖昧な関係に区切りをつけろと、そう発破をかけてくれたのだ。ということは、くっつくのでもいいの? いや、いいわけがない。だって私たちは。
「俺はアイドルだ。お前に気苦労ばかりかけてしまう……迷惑だろうか?」
 そんな聞き方ってずるいと思う。私が眉を寄せて首を横に振れば、彼は嬉しそうに笑って「そうか」と言った。そして両手を合わせて「いただきます」と言うので、私も手を合わせて「いただきます」と彼の言葉に連ねる。
「でも、アドニスくん」
「ご飯が冷める。食べてくれ」
「え? ああ、うん」
 促されるまま食べたお肉の美味しいこと! 思わず言葉を飲み込む私にアドニスくんは嬉しそうに「どうだ?」と口にする。頷けば彼は満足そうに微笑んで「よかった」と一言。
「……もうなんだか、胃袋掴まれちゃったね」
 諦めたように私がそう笑えば、アドニスくんも表情を和らげて、お箸で器用にお米を掬った。

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