大嘘つきの大行進_01
私は、羽風先輩の事が好き。態度は軽薄だし不真面目だけど、疲れていたら一番気遣ってくれるし、辛いときに優しい言葉をかけてくれるのも間違いなく彼だ。それに最近は練習にも活動にも精力的だし、案外後輩思いな一面もある。(これは晃牙くんたちには内緒だけれど)
私は羽風先輩が好き。恋を、している。
――という、設定。
授業終了直後には賑やかな声に包まれていた教室も、とうとう最後の一人が帰り私とアドニスくんの二人きりになってしまえば、随分と静かなものだった。響くのはアドニスくんの日誌を埋めるシャーペンの音と、私の黒板を叩くチョークの音。そして生真面目に一秒一秒刻み続ける時計の音だけ。
緩慢な空気が流れるこの教室は、とても居心地が良い。暖房の名残なのか、人の温かさが残っているのか、随分と暖かい教室で私は一つ欠伸を漏らす。
窓の外から差し込む陽光は徐々に橙を含ませて、今日という日の終わりを匂わせる。風に揺れる木の葉を見ながら、外は寒そうだなあ、なんて暢気に思い、もう一度、欠伸。
丁寧に黒板消しをかけたおかげで、黒板は本来の深緑を取り戻し、尊大に教室を見下ろしていた。粉受けに残ったチョークの粉も掃除済み。残り少ないチョークも補充済み。
最後に日直の名前を書き換えた私は「終わったよ」と教壇から跳ね下りた。アドニスくんは顔を上げて「ああ」と表情を和らげる。軽快な足取りで彼の元に向かえば、まだ白が目立つ日誌が彼の手の下にあった。
「ありがとう、助かった」
「ううん気にしないで」
日誌も手伝った方がよさそうかも。そう思い「それ」と口に出した言葉と重なるように「もうすぐ来るんじゃないのか?」とアドニスくんが顔を綻ばせた。主語がないけれど、何を指しているのかはすぐにわかった。脳裏に浮かぶ彼の顔に、頬が勝手に緩みそうになるから慌てて顔を引き締める。
急に険しくなった私の顔に、アドニスくんはまた小さく笑い「今は俺しかいない」と優しい言葉をかけてくれた。そういう問題じゃないんだよなあと思いつつ、今度は素直に頬を緩める。
「……来るかな?」
「待ってるんだろう?」
「そういうわけでは、ないけれど」
返事の代わりに、アドニスくんが優しく微笑む。そしてそのままペンを取り、ゆっくりと日誌の空白に文字を連ねる。話を逸らされたような気がして私はアドニスくんの前の席の椅子を引っ張り出して座り込む。何気なく入り口の方へと目をやれば、遠くからドアの閉まる音、そして施錠をする音が聞こえた。
「来たな」
アドニスくんが日誌から顔を上げずにそう言う。どきどきしながら私は入り口を眺める。聞こえる足音。磨りガラスの向こうに影。ノックもなしに勢いよく開く扉から現れたのは「おい」と大きな良く響く声を携えた大神晃牙だった。
跳ね上がる心臓に、緩む口元。慌ててきゅっと結んで、わざと不機嫌な顔を浮かべ、晃牙くんを見つめる。
「晃牙くん、乱暴」
「うっせえよ、行くんだろ、今日も」
「行くけど……」
アドニスくんを見れば、未だ半分も埋まっていない日誌にシャーペンを走らせている。まだ暫くかかりそうなその作業にもう一度晃牙くんを見て「先に」と口を開く。が、言い切る前にアドニスくんが顔を上げて「二人で先に行ってくれ」と晃牙くんに伝える。そして私の方へ目線を投げて「大丈夫だ、すぐに追いかける」と神妙に頷く。
「つうことだ。さっさと行くぞ」
「でも……」
「待っていたんだろう?」
アドニスくんは今度は小声で、おそらく私にしか聞こえないような声量でそう言った。涼しげなその顔に、そういうのとてもこまる、と心の中で苦言を漏らし、しかし得てしまったチャンスをふいにしたくない私が、さっさと行こうと心を蹴飛ばす。
アドニスくんをもう一度見れば、彼は優しい笑顔を湛えたまま「あとはこれだけだ、手伝ってくれてありがとう」と私の背中を押す。そのまま晃牙くんを見れば、彼は入り口にもたれながら「どうした?」と訝しげにこちらを見る。が、他クラスの遠慮があるのか、こちらへと近付いてこようとする素振りはない。
きっちり閉まった窓。黒板は綺麗。黒板消しもチョークの粉は落としている。目視で日直の仕事を終えているか確認して「じゃあ先に行くね」とアドニスくんに言葉を落とした。
「ああ、すぐに追いつく」
「じゃあ、また後でね、アドニスくん」
私が自分の席に置いてあった鞄をひっつかむと、待ちきれなかった晃牙くんが入り口から背を離して歩き出してしまった。慌てて早歩きで彼の背中を追いかける。(走ると晃牙くん、怒るから)足音を聞きつけたのか、晃牙くんはちらりとこちらを見て、僅かに歩調を緩めた。思いがけない優しさに顔を綻ばせて、そしてすぐに引き締めて晃牙くんの元へと寄る。
晃牙くんは並び立った私を見て「良かったな」とそう言った。晃牙くんの言葉が何を指しているのか分からなくて、素直に「なにが?」と尋ねれば彼はもう一度横目で私を見て、小さくため息を吐いた。
「スケコマシ野郎、今日も来るってよ」
「……ああ」
そういうことか。心の中に後ろめたさがちりりと疼く。おそらく想定していなかった反応に、晃牙くんは怪訝に顔を顰めて「またくだらねえこと悩んでるのか」と私の顔をのぞき込んだ。
ああ、そうだ、ここは喜ぶ場面だった。慌てて「違うよ、嬉しいよ」と笑えば、彼は訝しげにじろじろと私の顔を睨み「あっそ」と前を見て歩き続ける。
「そっか。じゃあ、今日も会えるんだね」
「そうだな」
「なんか、ずるいよね、こういうの」
私の思い人が羽風先輩ということを知った晃牙くんが「だったら頻繁にレッスンに来ればいいじゃねえか」と言い出したのはほんの一月も前の話だ。それからというものスケジュールに空きがあれば「ダンスを見て欲しい」だの「衣装の相談をしたい」だの、何かと理由をつけて私のことを呼んでくれる。
こんな立場を逆手に取ったやり方、と渋る私に「お前は羽風先輩と会える。俺たちは揃って練習が出来る。どこにも悪い要素はねえよ」なんて晃牙くんは言ってくれた。そして今日も、適当な理由をつけてレッスンに招いてくれる。
罪悪感が胸をえぐり、思わず深くため息が漏れる。晃牙くんは呆れたように長く息を吐いて、そして励ますように軽く私の背中を叩いた。
「もう卒業まで期間もねえんだから、利用できるもんは利用しとけ」
「でも……」
「どんな手を使っても、欲しいんだろうが」
そうだね、と私が小さく笑えば、晃牙くんは「頑張れよ」と嬉しそうに微笑む。その笑顔を見ながら、どんなてをつかってもほしい、と晃牙くんの言葉を心の中で反芻した。
私は羽風先輩のことが好き。――少なくとも、彼の中では。
恋をしているのは本当。どんな手を使ってもほしいのも、本当。そしてずるいことに後ろめたく思っていることだって、本当だ。
私は、晃牙くんのことが、好き。