答えは大体五線譜の上_06

 集中できないまま練習を開始して、日が暮れて少し経った頃合いで解散した。外の空気はもう冷たく、暖かかった身体もすぐに冷えてしまう。マフラーを巻いてぶるりと身を震わせれば、アドニスはこちらを見下ろして「寒いな」と彼も一度身を揺らした。どうやら寒さには弱いらしい。「このぐらい寒くねえよ」と虚勢を張ってみるものの、木枯らしに誘われくしゃみをひとつ。間の悪いそのくしゃみに羽風先輩は笑い、そして校舎を見上げ「結局朔間さんこなかったねえ」と一言呟いた。

 途中で参加すると踏んでいたのに、拙いメッセージで「きょうは、さんかできぬ」と送ってきたことを思い出す。ユニット練習に、羽風先輩がいないことは多いが朔間先輩がいないことは珍しい。今日、練習を早めに切り上げたのもこれが一因だ。

 一体なにやってんだよ、という気持ちと、そう言えばあいつと二人っきりで居るんだよな、なんて気持ちが折り重なり不安が募る。そんなことを勘ぐるなんてお門違いもいいところなのに――彼女が困っていた『奴ら』と同じ言い分だ――やはり気にならないと言えば嘘になる。どうして今まで感じなかったのだろうと思うくらい、今、焦燥感が心の中を駆け巡っていた。
 見上げれば自分の教室の電気は消えていた。しかし隣のA組――彼女の教室には煌々と明かりが付いている。もしかして、と飲み込んだ生唾は冷たい。喉を通る道筋がはっきりとわかる。

 随分と険しい顔をしていたのだろう。アドニスは俺の顔を見て、そして目線の先――教室を見上げて「明かりが付いてる」と呟いた。羽風先輩もアドニスの目線をたどり「ほんとだね、あれは、二年の教室?」と首を傾げた。

「ああ、俺の教室だ」
「てことは転校生ちゃんまだ残ってるのかもね……こんな夜遅くに、一人で」

 羽風先輩がアドニスの向こうからこちらを見る。言わんとしている事がわかって、普段突っぱねるのに気がついたら足は動き出していた。昼間と同じだ。なにかが、俺の中の何かが『走れ』と蹴飛ばしている。
 下駄箱に乱雑に靴を突っ込み、上履きを廊下にたたき付ける。爪先だけ引っかけて走れば、ぱこんぱこんと上履きのかかとが廊下を叩く。誰も居ない校舎に、少し間抜けなその音だけが響くが、今は構ってられない。

 階段を駆け上がり、誰ともすれ違わないまま教室へ。窓からろくに確認もせずにA組のドアを開ければ、そこには安らかに眠りについている彼女の姿があった。
 見回しても、一人。荷物も、彼女の物しかない。

 途端に脱力して、開ききったドアに手をついてもたれかかる。そのままゆっくりと彼女の元へ歩き、近くにあったプリントで思い切り彼女の頭を叩いてやった。衝撃はさほどないものの、眠りから起こすには十分だったらしい。「ふあ」なんて間抜けな声を上げて彼女は目を開いた。

「こうがくん」
「なに寝てんだよ」
「ん、ちょっと、きょうしつあったかくて……」
「吸血鬼野郎はどうしたんだよ」
「ん? 朔間先輩なら大分前に出てったよ……あ、でも寝るって言ってた。お昼動いたから眠たいんだって」

 欠伸混じりに彼女はそう答える。出てったって、なんだそれ。そのまま椅子に座って彼女を見れば、頬にはくっきりカーディガンの跡がついていた。まだ夢心地の彼女は緩慢な動作で伸びをして、そして机に肘をつくと、頭を乗せ、そのままずるずると倒れていく。もう一度欠伸を零して「わたしも、ねむい」と一言呟く。

 油断しきったその態度に、今まで抱いていなかった気持ちが心の中で疼くのを感じた。それはきっと『友達』を超えた感情で、彼女が言う『アイドルとプロデューサー』の一線を踏み越えたものに違いなかった。
 ゆっくりと瞬かれ、そしてまた落ちていく瞼。そろりと手を伸ばしても気付かれる事はない。そのまま頬についたカーディガンの跡に触れると、柔らかな肌の感触が指先に届く。

「晃牙くん?」
「……お前は」

 指を滑らせて、そのまま唇へ。自分のそれとは違う。潤いのあるそれの輪郭をなぞるように滑らせて、そのまま顎を掴む。彼女は困ったように俺を見上げている。しかし、拒絶をするような反応は見せない。指先に力を入れれば、彼女の閉じた唇がほんの少しだけ、開いた。

「……隙だらけなんだよ!」
「むあ!」

 親指と人差し指で顎を掴み思い切り顎を持ち上げれば、彼女はなすがまま、首を反らして悲鳴を上げた。指先を離せば彼女は顎を手で覆いながら「痛い! 舌噛んだらどうするの!」と抗議をあげる。そういえばそこまで考えていなかったけど、素直に謝罪するのも癪に障る。

「ちっとは抵抗しやがれこの馬鹿野郎」
「馬鹿じゃないです! というかそんな簡単にベタベタ触るの良くないよ!」
「うっせえなあ、テメエも採寸ときべたべた触ってくんじゃねえかよ」
「あれは仕事です!」

 ぼそりと「キスされるかと思った」と彼女の声が聞こえた。見れば、感触をさらうように彼女は指で自らの唇をなぞっている。その姿にまた心の中で良くない気持ちが渦巻く。動く腕をもう片方の腕で押さえつけて「しねえよ」とそう返した。そして、自分自身に言い聞かせるように、もう一度「しねえ」と小さく呟く。

「アイドルとプロデューサーはしねえんだろ。なら、しねえよ」
「そっか」
「だからテメエも卒業までその一線は死守しろよ」
「卒業まで?」

 彼女が訝しげに言葉を繰り返す。肩書きにこだわっているなら、思考を変えるよりも取っ払ってしまうのが一番良い。返答はせずに机のプリントを勝手にまとめると、彼女は慌ててそちらへと思考を移し「わ、自分でやるから、ちょっと待ってて」と片付けを始めた。
 そして手早く机の物を鞄に詰めると、椅子にかけていた上着を着込んで鞄を肩にかける。俺もマフラーをまき直し椅子から立ち上がり彼女と共に教室を出て、施錠をし、そのまま職員室へ向かう。

「……卒業までって、どういう意味?」

 てっきり流れたと思っていた会話は、彼女の中にまだ存在していたらしい。口に出すのも恥ずかしくて、しかし口に出すわけにもいかなくて「いいからお前は卒業までそのままでいればいいんだよ」とだけ乱暴に言い放つ。彼女は納得していないように顔を歪め、しかし答えが貰えないとわかったらしく「うん、まあ、わかった」とふて腐れたように呟いた。

 卒業したら、俺たちはアイドルとプロデューサーではなくなる。それは数年かもしれないし、数ヶ月かもしれない。もしかしたら数日かもしれない。でも例え数日だとしてもそのタイミングがあるのなら、逃すようなへまは決してしない。
 盗られたくない気持ちが恋だとしたら、独占したい気持ちが恋なのだとしたら、紛う事なき、これは、恋だ。

「良い子に待ってたら、晃牙くん、なにかくれる?」

 無邪気に笑う彼女に、前途多難だなと、一つため息を吐いた。

「ああ、良い子で待ってたらな」

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