答えは大体五線譜の上_01

「晃牙くんさ、今、恋してる?」

 彼女が唐突に変なことを言うものだから、食べていたパンを膝の上に落としてしまった。幸い、中身のこぼれるようなものでなかったから大事には至らなかったけれど、彼女の放ったその一言がどうにも信じられなくて「こい?」と拙くなぞってみれば、彼女は至って真面目に頷いた。
 その真面目な面と先ほどの言葉が上手く噛み合わなくて、とても気持ち悪い。奥歯に詰まったそれを取り除くためにもう一度口に出してみるが出てくる響きはやはり同じで、ああこいつもそういうことに興味があったのかと膝上にのったパンくずを落としながら、そんなことを考えた。
 あいつは俺がそうこうしている間にも「今じゃなくても、したことある? 恋」なんてしょうもないことを抜かしやがる。大口を開けてパンを口の中へ頬張り「ねえな」と咀嚼しながら答えると「即答……」と不満そうな一言が返ってきた。仕方ねえだろ、ないもんは、ない。

「つうかまず、興味ねえ」
「でもほら誰かがたまらなく好きだったり、心酔してたりとかって、経験ない? いままで」

 その言葉に少なからず思い当たる節があって――今はとてもじゃねえけど認めたくなくて――一年前の自分の姿を頭から追い出し「ないこともない」ともう一度パンを頬張った。その相手は異性ではなく、憧れの念だってことは黙っていたのに彼女は目ざとく「朔間先輩のこと言ってる?」と首を傾げた。余計な詮索すんなと肘で頭を小突けば彼女は「なんだあ朔間先輩のことか」となぜか少し安堵したように息を吐く。誰も正解とは言ってねえだろ。まあ、間違いじゃねえけど。

「そうじゃなくて、異性相手で」
「じゃあ、無え……なんだよ急に。コイバナならもっと適任がいんだろ」
「嵐ちゃんのこと? うーんとね、晃牙くんに聞きたかったの」
「なんだそれ」
「一番的確なアドバイス、くれるから」

 そう評されて悪い気はしなくて鼻を一つ鳴らせば「たーんじゅん」と彼女は言葉を弾ませた。からかわれていることに気がついてもう一度肘を彼女に向ければ、彼女は身をかがめてそれを避けて「嘘じゃないよ」と笑った。ゆっくりと肘を下ろせば、彼女も腰を伸ばしてこちらに微笑みかける。「晃牙くんは、気を遣った言葉をくれないから」とはにかむ彼女に、それは褒め言葉なのか? と脳内で問いかけるが、答えは出ない。指先に付いたパンくずを舐めながら「テメエに気を遣う分けねえだろ」と鼻で笑えば、彼女は満足そうに微笑み、頷いた。

「うん、知ってる。ありがと」
「……うぜえ」

 冬の入り口に立ったこの季節は、上着なしではもう寒い。彼女が肩から羽織ったストールは、風が吹く度にゆっくりとはためく。そんな薄い布あっても意味ねえんじゃねえの、と指摘したことがあるが、あるとないとでは心持ちが違う、らしい。いまいち理解は出来ないが、彼女が暖かいと思うのならきっとそれは意味がある物だろう。
 昼飯のパンを一つ食べ終わり、ビニール袋に空のそれを入れて、あたらしいパンを取り出した。袋をつまみ、左右に引っ張れば、乾いた音と共に袋が開く。斜めにしてパンの頭を袋から飛び出させながら「お前はあるのかよ、初恋」と尋ねれば、彼女は少し悩んで「ううん、幼稚園のとき……」と視線を空へ投げながら答える。

「マジかよ、早くね?」
「そうかなあ、でも恋? って言われると、微妙かも」
「ふうん、次は?」
「次? ええっと、小学生の頃の……」
「女ってそんな恋するものなのか?」

 そう尋ねれば彼女は少し困ったように笑って「どうなんだろ、私は、しちゃった」と肩を竦めた。その横顔が随分と寂しそうだったから「悪い事じゃねえだろ」と呟けば、彼女は「ありがと」と笑った。笑って「ちなみに中学生の頃もしてました」と言葉を続けるので、呆れて「恋愛魔神かよ」と言葉を吐けば、彼女は楽しそうに「なにそれ強そう」と声を上げて笑う。

「今は、どうなんだよ」
「今? 今は……ううん、ないかな……うん、ない」
「なんだその歯切れの悪い回答」
「ないというか、するべきじゃないかな、と思って」

 彼女は食べていた箸を止めた。そして一つ、落ち着けるように長く息を吐くので、ようやく本題かと俺も食べる手を止める。

 彼女は、本題に入る前に長々と喋る節がある。それも言い辛いことなら長々と、くだらない話を続ける。気を紛らわすためなのか、言葉を整理しているのかは定かではない。

 随分と長い前置きを思い出し、それだけ口に出しづらいことなのかと身構えれば、彼女はこちらを見て小さく笑い「くだらない話なんだけどね」と前置く。くだらなくないと思ってるから散々しょうもない話をしたんだろうがと思いながら、しかし口には出さずに黙っていると、彼女はこちらをちらりと見て、そして膝の上で指を組みながら、苦笑を浮かべた。

「結構ね、この学校の事を話すと、前の学校の友達から、恋愛は? とか、彼氏は? とか聞かれるの。友達だけじゃなくて、仕事で会う人にも雑談みたいな感じでね? いいひといないの? とか、好きな人居ないの? とか。でも、先生達はそんなことにうつつ抜かすくらいなら他にやることがあるでしょうって怒るじゃない? 私もそう思うんだけどね、他の人たちはそういう返事をすると、勿体ない、とか、折角の女子高生なのに、とか言うの。なんか、わかんなくなってきちゃって」

 何度も何度も繰り返し心の中で思っていたのだろう。彼女はゆったりと、まるで台本をなぞるようにはっきりと、そう言った。尻切れに小さくなる声に、泣いてるのかと横目で彼女を見れば、悲しそうに目を伏せて、しかし涙は見せずに「わかんないよねえ」とおどけて見せた。
 てっきり誰かが好きだとか、それに協力して欲しいの類いだと思っていたから、戸惑いが胸中に満ちる。と、同時になぜか安堵する自分がいて、それは恋愛がわからない仲間がいたことへの安心なのか、それともまた別な気持ちなのか、判別は付かない。けれど、安心した自分が心の中で「慰めてやれよ」と蹴飛ばしているのは、よくわかった。彼女の悩みの明確な答えは持っていないが、あまり気にするような事柄ではないことはわかる。

「んなもん、気にしなきゃいいだろ」

 その返答に彼女は眉を寄せて「気になるから困ってるの」と唇を尖らせた。でもそれ以上の言葉が出てこなくて「したきゃすればいいし、したくなきゃしなきゃいいんだよ」と言葉を投げれば、彼女は縋るように「晃牙くんは……」と口にした。散々言ったように、興味もなければ、する予定もない。好きなやつよりも、今はギターと、ユニットが何よりも大切だ。

「する余裕もねえし、してる時間がもったいねえ」

 そう答えれば、どうやら彼女は満足したらしく、嬉しそうに「そっか」と頷いて箸を持ち上げて昼食を再開した。影の落ちる顔を見る限り、解決はしていないだろう。しかし取り急ぎの彼女の満足になれたのなら、それはそれで問題はない。

 恋。パンをかじりながら心の中で反芻してみる。その単語と共にやたらと顔が浮かぶ羽風先輩に聞いてみてもいいが、腹が立つ反応をされるのは目に見えているので、やめておくことにした。

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