Home_09
いつの間にか私のポケットに滑り込んでいた携帯が震えている。後ろにコウモリと狼のステッカーが貼られた黒い携帯。着信画面にはでかでかと「乙狩アドニス」と表示されている。これは誰の携帯か、確認するまでもなかった。そして何日も私が持っていたら困る物だって事も、理解していた。
いつの間に、というか、あの瞬間か。この重みに気付けなかった程動揺していたのかと思うと、本当に恥ずかしい。
帰りの車の中で告げられた「実は挨拶にプロデューサーを連れてくるようにUNDEADの朔間さんから頼まれたんですよ」と好奇心を滲ませるアイドル達の声に、ああ君たちが共犯だったのか、と私は頭を抱えた。関係性を尋ねてくる彼女らに「高校の同期で」とだけ伝えれば「プロデューサーもアイドルだったんですか?!」と安直な返事が返ってくる。
違う違う、それは違うぞと、降車まで説明していたせいで、今の今まで全く気がつかなかった。これも作戦だったのかと、疑ってしまう。いやもうどうだっていい。ここは事務所で、今私のデスクの上にはおそらく「大神晃牙」の携帯電話がある。そして着信の相手は私が一番気安いであろう「乙狩アドニス」の文字。そして、これも憶測だけど、かけているのは、アドニスくんでは、ない。
意を決して電話を取れば「おっせえよ!」と想像通り晃牙くんの怒号が響く。切ってしまおうかと眉を寄せれば彼の口から四桁の数字が告げられる。早口だけれどすぐにわかった。私の誕生日だ。「えっ」と声を出すと、彼は「暗証番号はそれ。今からメール送るから解除して送った場所に携帯を持って来い、すぐにだ、わかったな!」と言葉を続けて乱暴に電話を切ってしまった。恐る恐る携帯に番号を入れれば、うわ本当に開いた。女子高生かよ。思わず小さな笑みがこぼれる。彼の言うとおりすぐにアドニスくんからメールが来て、ここからほんの数駅先の駅名と、おそらく待ち合わせであろうマンションの名前が書かれてあった。
……マンション? いや、まさか。
まさかそんなと思いながら、私は重い腰を上げる。もう仕事は終わった。後は帰るだけだ。明日は事務作業だから、多少遅れたって、うん、いや、何を考えているのだろうか。このまま彼の元へ行かず帰ってしまえばいい。携帯だって彼の事務所に送りつけるのもありだ。ありだ、けれど。
気がついたら彼の指定するマンションへとたどり着いていた。私が彼の事務所を知っているように、彼も私の事務所を知ってしまった。ここで回避しても結局追いかけ回されるだけなのだとしたら、これを回避する意味もない。でも、何を話せばいいだろう。どの面下げて「会いたかった」と伝える? それとももう会わないでと言えばいいの?
予想以上の高層マンションに足がすくむ。持っていた携帯を握れば、ぶるぶると震えていることに気がついた。見覚えのない番号だったので止まるのを待てば、数十秒それは震え続けて、止まった。そして暫くしてマンションから人が出てくる。晃牙くんは私を見るなり驚いたように目を丸めて、そして「でろよ、それ」と舌打ちをした。無茶言うなと心の中で呟いて、携帯を手渡す。
「……返しに来た、だけだから」
「おう、サンキュ。あがってけよ」
「いや、いい」
「いいから、来い」
そう晃牙くんは言って、私の腕を引く。いつもそうだ、彼は無理矢理、こうして私の手を引っ張って歩き出させる。数年前と変わらないそれに思わず視界が潤む。唇を噛み締める私に彼は振り返って小さく笑って「部屋まで我慢しろよ」と言う。黙って首を赤べこのように何度も振れば、晃牙くんは微笑みを落として、そのまま歩き続けた。
エレベーターで何階もあがり、随分と高い階数でそれは止まる。マンションの廊下を歩きながら、丁度真ん中辺りで彼は止まった。ポケットから犬のキーホルダーと鈴が付いた鍵を取り出して、扉に差す。回して、扉を開いて私を招き入れた。玄関に上がれば、晃牙くんは扉を閉めて、そのまま鍵を私の手の中へと落とす。
「やる」
「……は?」
「連絡も入れる必要はねえ、来たいときに来い」
「いや、いや、え? ここ晃牙くんの家でしょ? 何言ってんの?」
「一年間」
晃牙くんは扉に手をつきぐいと顔をよせる。もう片方の手は腰へ、抱き寄せる事もなく、しかし逃れも出来ないようなやんわりとした拘束に、心が跳ね上がる。
「俺様がテメエの家に通った、一年間。まずはその期間と同じだけ、部屋を貸し出してやる」
「貸し出すって、晃牙くんも帰ってくるでしょう?」
「テメエもあの頃あそこに住んでただろうが」
「でもほら、恋人とか、友達とか呼ぶでしょう? 困るって、そのとき」
「じゃあお前はあの頃、困ってたのかよ」
「それは」
それは、違う。でもあれは根底に私の恋心があったから成り立っているわけであって、きっと晃牙くんはそうではないはずなのに。やたらと近い顔の距離に、瞳を逸らせば「逃げてんじゃねえよ」と噛みつくように唇を塞がれる。身を引こうとするが、すぐそこに扉があって逃げられない。拘束する手の力が強まる。晃牙くんの息のにおいにくらくらする。
塞がれ、離され、また塞がれ。浅い物から徐々に深くなっていくその好意に、立ってられなくなり晃牙くんの手に体重をかける。彼は扉につけていた手を背中に回して、私の身を扉につけて何度も何度も、空白の時間を埋めるようにキスを繰り返す。
どのくらい時間が経っただろうか。荒い息を吐きながら晃牙くんの肩に顔をよせれば、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。震える肩を彼は優しく叩き「なんで居なくなったんだよ」と悲痛な声を上げる。
「だって、もう、いらなくなったとおもって」
「いらなくなったってなんだよ」
「だって晃牙くんには朔間さんもいるし、アドニスくんも、羽風さんもいて、ちゃんと皆の元に戻ったら、離れようときめてて」
「だから、なんでそれがいらないに繋がるんだよ」
情けなくなって言葉に詰まれば、晃牙くんは呆れたようにため息を吐いて袖で私の涙を乱暴に拭った。拘束を解いて靴を脱ぎ始める彼に、そう言えばまだ玄関だったと私は気がつく。部屋に上がる彼を眺めていると「さっさとこい」と手を差し伸べられる。靴を脱いで部屋に上がれば、彼は私の腕を引いて部屋へと入った。
人気アイドルと称すにはこじんまりとした部屋だった。シンプルな部屋に、懐かしい匂い。ぐるりと見渡せば、どうやら熟睡中であるレオンの姿が見えた。晃牙くんはレオンを起こさないようにそのまま部屋の隅、ベッドへと向かう。躊躇して立ち止まる私に、彼は思いきり力を入れて引っ張り無理矢理歩かせる。そしてそのままベッドへ押し倒すと、彼も隣に寝転び、ぎゅうと身を抱きしめた。
「なんで、ベッド」
「お前の部屋でもそうだったじゃねえか」
「それは晃牙くんが勝手に寝るからでしょ」
「勝手に寝るでも、簡単に男をベッドの上にあげんなよ」
理不尽な言葉に反論しようとすると、また唇が塞がれる。何度も何度も深く口づけられるそれに、合間の呼吸も難しい。晃牙くんが離れたタイミングっで大きく息を吐けば、彼は驚いたように目を丸めて、そして笑い出した。「色気ねえな」と肩を揺らしながら、そして優しく私を抱きしめる。「鼻で息しろよ」とからかうように鼻をつままれたので「泣いてるから詰まってんの!」と答えれば晃牙くんはまた笑い出す。
「……いらなくねえよ、つうかテメエが勝手に決めんな。いるかいらないかは俺が決めるんだよ」
「なにそれ」
「馬鹿みてえにふて腐れんなって事だよ……勝手にはぐれんな。ちゃんと側に居ろ」
晃牙くんの言葉に私は手を伸ばす。伸びきる前に、私の指先は彼の頬に触れた。不思議そうに「なんだよ」と呟く彼に私はぼそりと「届いた」と言葉を落とす。晃牙くんは眉を寄せて「当たり前だろ?」と答え、そして楽しそうに唇を上げて「触れ足らねえのか」ともう一度唇を落とす。慌てて「違います」と彼を押しのければ、晃牙くんは不満そうに「違わねえだろ」と言い、また顔をよせてキスをした。
「……キス魔」
「うっせえ、俺が何年お前を探したと思ってんだよ」
「私が嫌がってたらどうすんのよ」
「嫌なのかよ」
ぴたりと彼の動きが止まる。律儀に離れるその身に「……嫌じゃ、ないけど」と観念して言えば、晃牙くんは軽く私の頬を抓って、そしてもう一度唇を寄せる。どこで覚えたのか、わざとらしく音を立てて離れるそれに私は恥ずかしくなり口を手の甲で隠す。彼は扇情的に笑みそのまま胸元に手をかけてシャツの中、見えるか見えないかの瀬戸際あたりに唇をつける。ちりりと痛む肌に、彼は口を離し満足げに微笑みそれを指でなぞる。
「消える前に、来い。また付け直してやるから」
「さっさいてえ……!」
「そうでもしなきゃテメエ来ねえだろうが。居ない日は連絡するから、その日は来てもいいがノーカンだからな」
「乱暴だ! 横暴だ!」
「当たり前だろ? 勝手にはぐれるようなヤツには、首輪をつけねえと」
今度は優しく首筋にキスを落とす。その感触にぶるりと身が震える。そう言えば彼は狼だったと、あの頃も手負いの獣だと思っていたのをすっかり忘れていた。そうだ、彼の本質は『獣』なのだ。そしてここは彼のテリトリー。
「俺が選んだんだ、くだんねえ悩みで逃げ出すなよ。俺が選んで側に置いてる、それを心に刻みつけやがれ」
大きく口を開けて、彼は服をずらし肩に噛みついた。小さく漏れる吐息。細くきらめく糸状のそれ。数年越しに見る獣は美しく、とても扇情的に、私を見下ろしていた。
ああもう逃げられない。観念した私はずっと恋い焦がれていた彼の背中に、ゆっくりと絡みついた。