大神晃牙はかく語りき_01
はじまりは、ほんの些細な違和感だった。
倒れるぞ、と事あるごとに忠告しているにも関わらず、今日も彼女は大量の仕事を抱えていた。
秋晴れの清々しい空の下、景色なんて目もくれずベンチに座り、A4の書類と睨めっこ。眉を寄せて、たまにペン先を動かして、そして困ったようにまた顔を顰める。
もはや日常茶飯事になりつつあるその光景を見てしまい、晃牙はため息を吐いた。彼女が転校してきてもう半年。当初は追いつくためにがむしゃらになっているんだろうなと感心していた彼女のそれも、今となっては少しは休むことを覚えろと、少々の呆れを感じてしまう。
しかし彼女の努力で自分たちが助かっているのもまた事実な訳で、晃牙は声をかけるかかけないか暫く悩み、そしてギターを担ぎ直し、彼女から顔を逸らした。邪魔するのも悪いし。この前も注意したから大丈夫だろ。そう心の中に言い聞かせて彼女を遠目に部室を目指す。
ほんのりと色付き始めた木の葉が風に揺れてさわさわと音を立てる。一段と濃い影が、地面に落ちる。からからと音を立てて晃牙を横切り走って行くその木の葉を目線で追えば、依然とベンチに座り身体を丸めて一心に何かをしている彼女の姿が目に入った。晃牙は足を止める。声をかけないと決めていたものの、彼の足は自然に彼女の方へ向いていた。
「んな仕事ばっかしてたらまた倒れるぞ」
彼が彼女の横に立ちそう言えば、彼女は書類から顔を上げて晃牙を見た。険しい顔の表情が緩み「晃牙くんだ」と嬉しそうに笑う。書類に目を落とせばどうやら衣装のデザインを練っていたらしい。ラフのデザインがに、おそらく布の生地であろうメモ書きがちょろちょろと書かれていた。
んなことより気にすることがあるだろうと、書類から彼女の後ろ髪――大きく跳ね上がった寝癖――に目をやった。晃牙が彼女に寄った理由がこれだ。朝すれ違ったときにはなかったその盛大の寝癖に、これはからかってやらねばならぬと、晃牙の中で悪戯心が疼いたのだ。
晃牙は口端を上げ笑うと、自分の後ろ髪を指さした。
「おう、後ろすげえ跳ねてんぞ、どんな寝方したんだよ」
「ああ、なんか跳ねてるよね。さっき保健室で休んだときかなあ、まあ放課後だし、どうでもいいかな」
淡泊なその反応に晃牙は目を丸くした。自分だってとても外見に気を遣っている方ではないが、ここまで淡泊ではない。普通この年齢の女だと、もっとこう、気にするもんじゃねえのか?
そうとなればつまらないもので、また仕事に戻ろうとする彼女の手から、書類をひったくる。彼女は呆けたようにその軌跡を見つめて、そして慌てて立ち上がった。そうそう、それそれ。期待していた反応に晃牙はにんまりと笑う。「邪魔しないでよ」と怒ったように飛び跳ねる彼女に、晃牙は一歩後ずさって「女子力下がってんぞ」と笑う。
「うっさい、小学生並みの悪戯してる、くせに!」
彼女の届かない絶妙な高さまで書類を持ち上げて、煽るように揺らせば、晃牙の想像通り、彼女は地面を蹴り上げ必死に跳ねる。悪態と共に鳴り響く軽快なステップに晃牙も冷笑を浮かべて何度も書類を彼女の頭上にはためかせる。
小さな唸り声を上げながら「いい加減に、しな、さい!」と一際大きく地面を蹴った彼女を躱して距離を取れば、彼女の背中の向こうに、よく見知った姿を見つけた。
決して大きな声で呼んだ訳ではない。口の端からぽろりとこぼれた「アドニス」の一言に、彼女は動きを止めて、忙しなく周囲を見回し、そして先ほど指摘した髪を撫で付けながら「えっ?」と呟く。
撫で付け程度では寝癖はとれるはずもなく、彼女の手が通り過ぎた瞬間に、ぴょこんと後ろ髪が跳ね上がった。怠くなってきた右手を下ろし、書類を彼女に渡しながら「アドニスも向かってるし、俺もレッスンに行ってくる」と伝えれば、彼女はやはり周囲を伺いながら「うん」と、上の空で呟いた。
「テメエも無理すんなよ」
「うん」
「おい」
「うん?」
「聞いてんのか」
「うん……ねえ晃牙くん」
「なんだよ」
彼女は諦めたのか、周囲を見渡すのをやめて晃牙を見上げた。片手は書類へ伸びて、もう片方の手は、何度も何度も寝癖を寝かしつけるように髪の上を往復している。頑固な寝癖は彼女の努力も甲斐なく、ひょこひょこと顔を出してはまた均されている。
「寝癖、跳ねてる?」
「……? さっき言っただろ、ひどい寝癖だって」
「そ、そっか……」
なぜか彼女はひどく恥ずかしそうに目をぎゅっと瞑り、そして書類で顔を隠しながら「そっかあ」と呟いた。なんだその反応、と晃牙が眉を顰めれば、彼女は慌てて誤魔化すように笑い「何でもないよ」と彼の肩を幾度か叩いた。