蹴り飛ばしたガラスの靴_01


 目の前には乱暴に手を引くきみが、さも当たり前のようにいると思っていた。行きたいところがなくともきみが連れていってくれるから、途中の景色なんてろくに見なかった。後ろからチラチラと見える横顔と、大きな背中。私の世界は、それだけで良かったのだ。

 大神くん、となぞる私の声を、どれだけか細くても、どれだけ小さくても必ず彼は聞いてくれた。不機嫌そうに眉を寄せて、繋いでない方の手をポケットに入れて「なんだよ」なんて口を尖らせる。その光景が好きで好きで、用事のないのに呼んだことだって沢山ある。なんだよって、なんでもないよ。ただ声が聞きたくて、振り向いて欲しくて。
 きっとそう、好きだったんだ。あの頃の私は君のことが、とても好きだったんだ。

 銀色の時計が太陽の光に反射してキラリと光る。冬場につけるそれは氷のように冷たく、肌に当たった瞬間、ぞくりと身が震えた。
 今はもう、この手首に巻き付くのは暖かな彼の手ではない。無機質で、でも正確に時間を教えてくれる時計と、多忙な仕事だけがなんとか私を動かしている。
 だからたまに無性に寂しくなる。仲睦まじいカップルや、広告に映る彼を見つめたりすると、殊更に。

「あーあ、なんか、人恋寂しい」
「どうしたんですか急に、彼氏とでも別れました?」

 休憩室のドリンクサーバーでたまたま一緒になった後輩が携帯をいじる手を止めてこちらを見た。忙しなく動いていた指は誰かにメールでも打っていたのだろうか。片手にコーヒー、片手にスマホを携えた彼女は、そうだねえ、と笑う私に首をかしげる。

「失恋かな」

 彼女の後ろ、ラックに差してある最新号の週刊誌を見て私は苦笑を漏らした。人気アイドル、大神晃牙のスキャンダルは一面を飾るには最高のコンテンツらしい。でかでかと描かれた見出しに背を向けて、私はコーヒーを一気に飲み干した。

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