炭酸少年_06
青い空に入道雲。その下に快活に笑う鉄虎くんの顔。手には空色の缶を携えた彼の特大のポスターを見上げ、私はにんまりと笑みを浮かべた。やはり彼には夏が似合う。企画段階で推してよかった。
夏の少年をイメージした炭酸飲料のポスターの仕事が舞い込んできたのは数ヶ月前。その案件の担当者が風邪で休んだ為、代打で会議に出たのが発端だった。急いで目を通した飲料の企画書。私の脳裏にぽつりと、高校の後輩だった鉄虎くんのことが頭に浮かんだ。ライブでの猛々しい姿、練習時に見せる無邪気な笑顔。ポンポンと浮かぶその面影が拭えぬまま、取り纏められた資料を片手に企画会議に参加した。
会議自体はとても難航していて、ああでもない、こうでもない、と意見が飛び交う。あの女優を起用してみたらどうですか。いやでもあそこはちょっと。ならこのキャラクターとコラボしてみて。それは他の飲料でやっているから。そんな意見を出せば突き返される状況だったので、一石を投じるつもりではなかったが、一つの案として鉄虎くんの名前を出した。そこそこに知名度のあるアイドルだし、知らないということはないだろう、多分。
すぐに突き返されると思っていたが、どうやら感触は概ね良く、若手の男性アイドルか、と声が生まれる。同調するように、いいですね、やら、確かにバラエティにも良く出てますし世間的な印象も悪くないですよ、やら気泡のようにぽつりぽつりと、しかし絶え間なく高評価の呟きが会議室に生まれ続けた。
『姉御、俺頑張ってくるッス!』
ライブ前には必ずそう言ってVサインをつくる鉄虎くんの顔が、脳裏に浮かんだ。
かくして無事に起用された鉄虎くんは撮影も難なくこなしこうしてポスターに鎮座していた。初回の企画会議にしか参加していなかったものの「功労者ですから、内緒ですよ」と仮刷りのポスターをもらってしまった。社外秘扱いなので持っては帰れないけれど、今も机の中にひっそりと仕舞われてある。
都内にひっそりと佇む喫茶店のドアを押し開ければ、カウベルが私を迎えてくれた。可愛らしい制服に身を包んだ店員さんが小走りでやってくる。待ち合わせの旨を伝えれば彼女はにこりと笑って座席の奥の奥、窓から見えない死角の席へと案内してくれた。
照明にぼんやりと照らされた席で鉄虎くんはなにか雑誌を読みながらコーヒーを飲んでいた。私が声をかければ彼は驚いた様に立ち上がり頭を下げる。ほんと、天下のアイドル様なんだからこんな簡単に頭を下げないでほしい。眼前にある髪の毛を悪戯心で撫で回せば、彼は驚いた様な声をあげて、そしてじろりと私を睨んだ。
「すぐそうやってからかう」
「ごめんごめん、久しぶりだね、元気だった?」
「元気でしたよ、姉御も元気そうで何よりです」
店員さんが注文表を片手にこちらへとやってくる。横に立てかけてあるメニューを眺めていると、鉄虎くんが歯切れの悪い言葉を漏らす。みればバツの悪そうな顔。店員さんに聞こえないような小さい声で「俺、コーラ頼んでいいですか」と聞いてくる。そんなの好きに頼めばいいのに。ふと彼の隣をみればまだ並々と注がれたコーヒーが、残っている。
なるほど。こみ上げる笑みを抑えてコーラを頼めば、店員さんは微笑んで厨房の方へと戻る。
「最初からコーラ頼んどけばよかったのに」
「……だって、格好つけたいじゃないッスか、久しぶりの再会ですし」
「飲めたら格好よかったのにねえ」
私がそうほくそ笑むと鉄虎くんは恥ずかしそうに目をそらせた。肘をついて、手で口元を覆いながら、もそもそとなにかを呟く。聞き取れなくて首を傾げれば、目線だけこちらを向けて、しかしまたもそもそ何かを呟くだけ。
卒業して随分と経ったから、外見は大きく変わっていたが中身はやはり鉄虎くんのままだった。「鉄虎くんは相変わらずかわいいなあ」と漏らせば、彼は口元を覆っていた手を外して、何か言いたげにじっとこちらを見つめる。が、何も言わず眉を寄せて、唇を尖らせた。
「それで、今日はなんの用事?」
「この前のポスターの仕事、起用してくれたの姉御なんスよね」
「会議で名前だしてみただけだよ、決めてくれたのは先方だし、連絡取ってくれたのは担当の子だし」
「でも嬉しかったッス、お礼を言いたくて、あと」
鉄虎くんが机の上でぎゅっと拳を握る。
「会いたくて」
鉄虎くんのまっすぐな視線がまっすぐなまま降り注ぐ。どう返答していいか言葉に窮していると店員さんが朗らかな声で「コーラお待たせしました」と机の上にガラスのグラスを置く。からん、と氷が揺れる。迷いもなく彼女は私の前にグラスを滑らせて微笑むと、せわしなく店内の奥へと消えていく。
私がコーラを鉄虎くんの前に置くと、鉄虎くんもコーヒーを私の前に差し出した。常設されている砂糖を溶かしかき混ぜていると、鉄虎くんがふっと、柔らかな笑みを浮かべた。
「そういえば姉御とご飯食べたのって一回きりでしたね」
「ご飯?」
「翠くんと忍くんと一緒に食べたときッスよ、俺、もう一回ずっと誘おうと頑張ったんッスけど、勇気出なくて……随分と遅くなりましたけど、交換ッスね」
心の奥にしまいこんでいた記憶がふつりふつりと蘇る。しかしどれも輪郭は曖昧で、そういえば一緒に食べた気がする、だとかそんな約束をした気がする、くらいのニュアンスでしかなかった。よく覚えているものだ、と私が目を丸くしていると、鉄虎くんは自嘲気味に「ずっと好きでしたから」と笑う。朗らかなその表情に、ああ彼の中では無事に『思い出』になったのだな、と私もつられて微笑む。
「そっか、ありがと」
ティスプーンでコーヒーをかき混ぜれば、からん、と爽やかな音がした。美味しそうにコーラを飲む彼をみて、もしも在学中に告白をされていたら断り切れていたのだろうか、と頭に浮かんだ。
見目麗しい集団の中に入るにあたって、心の中に決めていたルールがある。それは誰も好きにならない、という事だ。誰かを好きになってしまったらその人を特別視してしまうようになる。ひいてはユニットの贔屓につながってしまう。私は、それが一番嫌だった。
友達までにはなる、しかしそれ以上にはならない。少なくとも在学中は。もしどうしても好きな人ができたら、卒業して、しばらくして、まだずっと好きなら、告白しようと決めていた。
そうだ。そう言ったんだ。私は鉄虎くんの告白の後にそう伝えたんだ。目の前にあの日の風景が広がる。緊張してブルブルと震える拳を見つめながら「結婚はわからないけど、もし次会ったときにまだ好きでいてくれるなら、お付き合いしましょう」と。
考えてみれば残酷な言葉だったのだと思う。あの頃はそれが正義だと思い込んでいたが、青春真っ盛りの告白の返事を社会人まで引き延ばすなんて。自分の所業に苦笑を漏らせば、コーラをすすっていた鉄虎くんが「思い出し笑いッスか?」と茶化すように声をかけてきた。
「そうだよ、ちょっとね、教えないけど」
「ずるいッスよ、面白さ分けてください」
「秘密だよ、ところで高峯くんとか仙石くんは元気?」
「元気ッスよ!たまに仕事場で一緒になるッス」
「そっか流星隊では活動してないのか」
「まあそうッスね、名前は学院においてきちゃいましたし」
「そっか、後輩にユニットを残すなら芸能界で使うわけにはいかないもんね」
「そうッス」
「流星ブラックは歴代いるもんねえ」
「……あの」
「なに?」
「……一応俺、二年間は流星レッドだったんッスよ」
拗ねたように言葉を吐く鉄虎くんに思わず笑いをこぼす。確かに彼にとっては流星レッドの歴の方が長いだろうが、私にとっては流星ブラックの印象の方が強い。それは最後の一年は正式にプロデュース科が設けられて各ユニットとの関わりが薄くなった事もあるが、やはり最初の一年が濃すぎたのだ。私にとっての流星隊は守沢レッドと南雲ブラックでしっかりとインプットされている。
「ごめんごめん、だって最後の一年あまり見れてなかったしさ、ブラック時代のほうが一緒にいたじゃん」
「でもなんかこう、ブラックって呼ばれると後輩として扱われている気がするというか」
「後輩じゃないの?」
「そうじゃなくて……」
アンタは相変わらず。ぼそりと鉄虎くんがそんな言葉を吐く。慌てたように息を飲み込み、そして観念したようにそれを吐き出した。
「約束、覚えてますか?」
「やくそく?」
「再会して、まだ好きなら付き合ってくれるって、約束」
じろりと鉄虎くんがこちらを睨む。
「忘れたなら思い出してください、俺は今日約束を果たしに来たんですから」
「て、鉄虎くんちょっと待って」
「待ちました何年もずっと待ちました、まだ待たなきゃいけないんッスか」
彼の大きな手が私の手首を掴む。そのまま彼の指が私の手のひらを伝い、指を絡ませた。
「本当は諦めようと思ってたのにアンタが仕事を持ってくるから、名前を聞いたときは死ぬかと思いました。忘れようと思ってたのに、ずるい人ッスよ」
「鉄虎くん、それは、その」
「付き合ってる人がいるなら諦めます、でもいなくて、もし俺の事が心の片隅にあるなら、そばに、おいてください、俺は、姉御のことが、好きです」
彼が一歩身を乗り出す。机の揺れで、氷がからりと音を上げた。熱を持った指先はしかりと手を掴んで離さない。
可愛い後輩だと思っていた、卒業までは。思い出に昇華されていると思っていた、今の今まで。しかし鉄虎くんはずっと同じ思いをずっと抱いてくれていたのだ。
「私で、いいの?」
「姉御じゃなきゃ嫌ッス」
即答する鉄虎くんに、思わず笑いが溢れる。「俺は真剣ッスよ!」と叱咤が飛んできて、私は謝りながら彼の手に指を添える。
「うん、随分と遅くなっちゃったけど、よろしくお願いします」
私の一言に鉄虎くんは目を瞬かせて「……本当ッスか?」ととんでもない言葉を吐いた。「冗談にしてもいいの?」と笑う私に彼は首を何度も振って、安堵したように長く、深い息を吐いた。
「姉御」
「なに?」
「……キス、したいッス」
「ここ喫茶店だよ?」
「誰も見えない席ですから、ちょっとだけ、ダメですか」
懇願するような瞳がまっすぐこちらを見る。確かにここ一角だけ店内のお客さんからも外からも見え辛い位置になっている。あたりを見渡して、誰も見てない事を確認してまっすぐ鉄虎くんを見る。
「……じゃあ一つ、条件が」
「なんですか」
「名前で、よんで、姉御じゃなくて」
鉄虎くんは一瞬目を丸くして、そして耐えきれないように笑った。「随分と可愛らしい条件ッスね」とひとしきり笑った後に、軽く咳払いをして、まっすぐこちらを見る。そして甘い、優しい声で私の名前をなぞった。そのまま彼は手を伸ばす。繋いでいる手とは逆の方の手が頬に触れる。繋いでいる方の手に力がこもったかと思うと、彼はほんの少し腰を浮かして、顔を寄せた。
初めてのキスは、あまいコーラの味がした。鉄虎くんらしいと、心の底から、そう思った。