炭酸少年_01

「その時は俺と、結婚してください」

 とても冗談ではない響きで、とても冗談みたいなことを言われたあの日の記憶は、今でも鮮明に残っている。

 卒業式。桜の季節というにはまだ少しだけ早くて、校舎に植えられた桜の木は、申し訳なさ程度に枝を彩りながら巣立つ卒業生を見守っていた。門出にふさわしく空は青く高く、名残惜しいと泣き惜しむ周囲の声をぼんやりと聞きながら、私はもうしばらくは訪れないであろう校舎を散策していた。

 証書の入った黒い筒は随分と軽く、これが3年間のーー私にとっては二年間だけどーー在学の証だなんていうのだから驚きだ。しゅぽん、と開けてみれば輪郭に沿うようにそれはぴったりとひっついている。筒をひっくり返してからからと振ってみたら「それ、振っても意味ないと思いますけど」と半ば呆れたような声が聞こえた。振り返れば眉に皺を寄せた鉄虎くんが立っていて「だめかな?」と問う私に彼は無言で首を振る。まあ別段取り出したかったわけでもないし。
 ため息を吐いてざらざらとした蓋を閉めれば、鉄虎くんのうるさいほどに絡みつく視線に気がついた。他の先輩のところに行かないのかな、とふと思ったけれど、そういえば彼が懇意にしていた先輩はみんな二学年上だったことを思い出した。

「卒業、するんッスね」

 もしかして寂しがってくれているのだろうか。ふと1年前の、先輩たちを涙をこらえて見送っていた彼の姿を思い出した。鬼龍先輩に、守沢先輩に、深海先輩に。一人一人に深々と頭をさげて「今までありがとうございました!」と大声を張り上げていた鉄虎くん。彼らが校門をくぐり、姿が見えなくなるまで頭をさげていた鉄虎くん。見えなくなってから、堰き止めていた涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた鉄虎くん。

 羨ましいな、と思った。あれだけ強く誰かを思うことも、そして思われることも。その彼らの間に流れる空気がとても羨ましく思えて仕方なかった。

 さて今はどうかと言われれば全くそんな雰囲気はなく、やるせない、寂しい雰囲気は流れているけれど、あの頃の熱意のようなものは微塵にも感じられなかった。だから、そこまで私も構えずに、冗談っぽく笑いながら私は鉄虎くんに話しかけられたのかもしれない。

「寂しい?」

 私の一言に彼は、心外だと言わんばかりに眉を寄せた。そして吐き捨てるように「あたり前ッスよ」と言葉を吐く。その言葉に、胸中はふっと高ぶりをみせた。ああ私は彼にとっていい先輩であれたのだと。別れを惜しむべき存在であれたのだと。抑えきれず思わず表情を緩めれば「何笑ってるんッスか」と厳しい叱咤が飛んできてしまった。

「だって部活もユニットも違うのに、そうやって惜しんでくれること、嬉しいんだもの」
「だって姉御は、俺らが1年の時からずっと助けてくれたじゃないッスか」
「助けたなんて、プロデュース科のしての役目を全うしただけだよ」
「それでも俺たちは……いや、俺は助けられましたから。ありがとうございます」

 鉄虎くんは恭しく頭を下げた。随分としおらしい挨拶だ。いつもの威勢のいい声も、元気な声も欠片も見えない。戸惑いながら私もお礼を述べれば、彼は顔を上げて、そしてふいと視線をそらす。言いたいことがあるようだけれど、切り出すのに迷っているのか、それともきっかけがつかめないのか、ウロウロと視線を彷徨わせている。ここで知らないふりをするのも一つの手だけれど、しょうがない、最後の世話焼きだ。

「なにか伝えたいことがあるの?」

 一歩、鉄虎くんに近づく。風に揺れて黒と赤の髪がさわさわと揺れる。今日の空を写し取ったような鮮やかな水色のブレザーが揺れる。ひらりと風に乗って桜の淡い香りがした。春の音が聞こえる。もうきっと、卒業したらあっという間に春が、新しい生活がやってくる。だから高校の思い残しはないように、すべてここで聞いておこう。
 息を吸って「言い辛いことならいいけど、怒らないから言ってごらん?」と笑えば、鉄虎くんはきゅっと唇を噛み締めた。噛み締めて、一拍おいて、ゆっくりと口を開いた。

「お、男!南雲鉄虎!アンタに!伝えたいことがあります!」

 それは大声量に大声量を重ねたようなボリュームで、それこそ卒業式でなければ衣更くんが「何事だ?!」と駆け込んできそうな声量だった。ひるむ私など構いもせず、彼はこちらへと歩み寄ると逃げないように、しかり、と私の腕を掴んだ。肩をいからせて、切羽詰まったように息を荒らげて、じろりとこちらに鋭い視線を投げる。

「その、アンタに……」

 ぼそりぼそりと、鉄虎くんは言葉を続ける。よくよく考えたら『アンタ』と称されるのは初めてかもしれない。これは雲行きが怪しくなってきたぞ、と一歩あとずされば、「逃げないでください」とぴしゃりと声が飛んできた。そうだね、逃げるのはよくないね。でもちょっと腕は痛いかもしれない。きつく握られた手首は顔をしかめるほどではないもののちょっとやそっとじゃ振り切れなさそうな強さだった。

「その、聞いてくれるだけでいいんです、言い逃げって男らしくないッスけど、困らせたくないんで」
「うん、わかった、聞く。逃げないよ」
「先輩は卒業して、プロデューサーになる道を選ぶんッスよね」
「うん、まあ大学に入って勉強もうちょっとして、だけど」
「じゃあまた俺たち会えるかもしれないんですよね」
「そうなるね」
「なら、次再会したら、その時は俺と、結婚してください」

 随分と真面目な顔でそう言うものだから、私は彼の顔を見上げながら、よく考えもせずに「はい」と答えてしまった。案の定鉄虎くんの顔は歪み「嘘じゃないッスよ」と言葉を吐き出す。でも、でもだ。結婚なんて突拍子もない。ふと、1年前に羽風先輩から「再会して美人になっていたら口説く」なんて言われた記憶が蘇った。しかしあれは告白、というよりも彼なりの別れの言葉だったのだろうが。
 でもこれは違う。どう考えてもど直球な、愛の告白だ。

 鉄虎くんの手が離れる。見ればうっすらと跡が残っている。腕が痛いはずなのに、彼の怒ったような、泣きたいようなそんな顔を見て疼き出す胸の方が痛かった。やるせない、春の暖かさが満ちる。相変わらず別れを惜しむ声も、賑やかに見送る声も、すべて均等に、空気に溶ける。

 空気を吸い込めば、冬の残り香のような、ほんの少し冷たいそれが喉を巡った。真剣にこちらを見つめる鉄虎くんの顔を、私も同じように見つめて、そして。



 また、あの夢だ。けたたましく鳴り響く目覚まし時計を止めて、布団から起き上がった。
 最近よくあの夢を見る。懐かしいかわいい後輩からの愛の告白。しかしそれは夢の世界だけではない、ちゃんとした現実に起こったものだったのだ。寒さが緩んできたせいか最近起きるのが容易い。そういえばあの頃のそんな季節だったような、と起き抜けの回らない頭で思い出す。

 果たして彼はあの日の出来事を「思い出」として処理をしているのだろうか。それとも「現実」として胸の中に密かに秘めているのだろうか。

 甘い、砂糖菓子のような夢を頭の片隅において、私はのっそりと歩き出した。予定通り私は大学を出て、プロデューサーの補佐として邁進している。そして彼も、高校を卒業して、アイドルとして輝かしい道を一歩一歩歩いているようだ。

「(あの日、私はなんて答えたんだっけ)」

 もしゃりもしゃりと、洗顔料を泡立てながら夢のかけらを追いかける。あの日と同じ、ぬるくあたたかい空気が満ちた部屋で、一人。


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