気まぐれな騎士は数学がお得意_01
その猫は困惑している私を見ると嬉しそうに笑って、にゃあ、と鳴いた。無視を決め込む私に猫は長い両腕を伸ばして上着の袖口を掴む。先ほどよりもほんの少しだけ低く轟く、にゃあ、の声に遠くの方で密やかに「ねえサリー呼んでこようよ」だとか「いやもしかしたら瀬名先輩の方がいいかもしれない」「ええ!泉さん?!」なんて級友の声が聞こえる。暦の上では立冬を過ぎたのに、昼休みの2のAは暖かい。まどろむ意識の中、思わず鳴き続ける猫の方を向いてしまいそうになるがぐっとこらえる。隣で何度も何度も鳴く猫に意識を向けないように片手で机の中から五時間目の授業の教科書を取り出すと上着をつかんでいた猫は這い上がるように私の手首に指を這わして人差し指をきゅっとつまむ。「鳴上を呼んできた方がいいのだろうか」「いややはり衣更殿が適任である」級友が勢い良く立ち上がるので、根負けした私は指先を今にも口の中に含めようとしている猫に視線を向けた。
「やーっとこっち見た」
「……凛月くん、何か用事?」
「んー?なんだと思う?あててみて?」
彼女だ、という囁きが聞こえ声のした方を睨みつけると、遠巻きに眺めていたスバルくんと真くんがあからさまに目線を逸らした。確かにこの物言いは彼女っぽいけれども、相手は凛月くん。男の子だし、そこまで親密になった覚えはない。友達だ。私は彼らの方を見つめながら助けての意味を込めて幾度か瞬きをすると「よそ見してる」と声とともに指先に鋭い痛みが走った。驚いて凛月くんの方をみると掲げられた人差し指の、犬歯で破られたであろう部分から玉のような血が滲んでおり、凛月くんは躊躇なくそれを口に含む。彼は幸福そうに頬を緩めながら、ふふふ、と笑みを零した。
「あのねえ、俺今日は騎士だから」
「は?」
「だからオヒメサマを守りに来たんだよ」
皮膚を食い破った矢先のそのふてぶてしい物言いに文句のひとつでも言ってやろうかと口を開いたが、あまりに凛月くんが嬉しそうに指先を舐めるので喉まで出かかった言葉を飲み込む。文句の代わりに「猫じゃなくて?」と口にすれば「猫でもいいよ、でも今日は騎士だから」なんてトンチンカンなことを口にした。指先に這う舌の感触。滑らかなその刺激に思わず腰を引くが、思いの外手首を強く握られているので距離は取れない。凛月くんは反応を楽しむように指先を二、三度舐り、そしてまたにゃあと鳴く。
「猫の騎士って可愛いでしょ?」
「でも血吸いの猫でしょ?」
「しょうがないじゃん、俺吸血鬼だし」
彼はつかんでいた手首を離して、舌舐めずりをする。彼の形の良い唇からちろちろと舌が顔をだす。「破廉恥であるぞ!」と我慢の限界だったのか神崎くんが教室中に響き渡る大声で怒鳴ると、凛月くんは悪戯に笑って「羨ましいでしょ」と挑発を飛ばした。挑発に乗せられるがまま刀に手をかける神崎くんを慌ててアドニスくんが止めに入る。「朔間先輩を呼んだ方がいいだろうか」と神崎くんを抑えながらアドニスくんがこちらに声を投げたが、凛月くんは笑顔を浮かべながら「兄者はこの時間起きてこないよ」と声を上げた。というか揃いも揃って、他力本願か君達。
そんな騒ぎを裂くように予鈴のチャイムが学院に鳴り響いた。私はほっと胸をなで下ろして「そろそろクラスに帰らないとまずいんじゃない?」と凛月くんに微笑みかける。彼はまるで想定していたように私の隣の席に腰を下ろして大きく伸びをした。
「隣にいないと守れないでしょ」
この平穏に満ちた学院の中で、彼は一体何から守ってくれるというのだ。型破りな騎士様は動揺する私なんてお構いなしに大きくあくびをこぼすと机に頭を転がして、嬉しそうに微笑んだ。
「俺ねえ、昔は2-Aだったんだよ」
だからって、この教室で授業を受けていい理由にはならない。