爪先ロマンス_01

 コンビニで買った爪切りは彼の大きな手に摘まれてさらに小さく見えた。ぱちぱちと音を立てて晃牙くんの伸びすぎた爪は机の上に広げたティッシュの上に舞い落ちる。小気味よく音を鳴らすくせに落ちる爪の欠片は微々たるもので、それは手入れというよりも微調整と表現する方がしっくり来る。爪と向き合い、爪切りの角度を調整して刃を落とす。晃牙くんは驚くほど真剣な眼差しで切るべきところとそうでないところを見極めつつ、まるでひとつの作品を作るように丁寧に爪を切り落とすと、尖った部分をヤスリで削り落とした。
 爪に付着した白い粉に息を吹きかけてそれを飛ばすと、ようやくそこで私の視線に気がついたらしい。彼は爪先からこちらへと目線を移して、不愉快そうに顔を歪める。

「なんだよ」
「なんというか、女子」
「爪の手入れは基本だろうが」
「手入れという割には切ってなくない?」

 まだ白が残る爪先はヤスリをかけられてきれいな弧を描いている。先ほどよりも確かに短くはなったものの、一般的なそれよりも彼の爪は随分と長く見えた。晃牙くんは手を広げて爪を見ながら「このくらいがいいんだよ」と私の目の前で指を煽るように見せつけてくる。

「ギターを弾くいい長さってのがあるんだよ」

 そう言葉を続ける彼に、ふうん、と私は返す。ミリ単位のこだわりが息衝くその爪を眺めていると、私の前でくるりと指は丸を描いて、そのまま視線を誘導するように机の上に落ちる。とん、と音を立てて着地した晃牙くんの爪先には、ほとんど何も書かれていない2のAの日誌が置いてある。切りたてのその指でもう一度、彼は日誌を叩く。空欄が目立つそのページを責め立てるようにとんとんとんとん、と四回、晃牙くんは忙しなく指でページを突いた。

「さっさと書けって」
「うん」

 私がシャープペンシルを握ると、日誌の上に鎮座していた指は私の視界からきえて、そしてしばらくした後、隣からまたぱちりと音が聞こえた。沈黙。ぱちり。沈黙。確かめながら切っているのだろう、秒針よりもずっとゆっくり流れる爪切りのリズムは時折ヤスリのため息のような音を織り交ぜながら私の耳元に届く。私は頭の片隅で一限目から六限目までの単元を思い出しつつその音に耳を傾ける。ぱちり、ぱちり。ティッシュの上に舞い落ちる爪。吹き飛ばされる爪だったもの。

 ふと、自分の指先を見つめると随分白い部分が目立ってきたように思えた。ギタリストでもない私は爪の長さにこだわりはないものの日々の忙しさにかまけていたら微々たる身嗜みに気を回せなくなる。多分そろそろ切りどきなのだろう。伸びすぎた爪を間近で眺めていると「貸してやろうか?」と晃牙くんの声が届いた。横を向くと晃牙くんは爪切りをたたんでこちらに差し出している。晃牙くんは、存外に優しいのだ。

「いい、家で切る」
「そうかよ」

 晃牙くんはじっと私の指先を見つめた。

「綺麗な手してんな」

 言う人が違えば軟派言葉に思われるような言葉に驚いて晃牙くんの顔を見ると、どうやら自分の発した言葉の重みを理解していないらしく、彼は眉を寄せる私の顔を見て不思議そうに首を傾げた。「なんだよ」彼は探るように言葉を発する。なんだよって、きみがなんだよ。突然降ってきた褒め言葉にどう反応したらいいかわからなくて、「晃牙くんの手はゴツゴツしてるよね、強そう」と適当な言葉を吐くと、どうやらお気に召したらしく彼はとても嬉しそうに笑った。「そうかよ」晃牙くんはそう言って手のひらを宙にかざす。手のひらと、手の甲を交互に見ながら、得意気に笑顔を浮かべた。

「ま、お前よりは強ぇよ」
「あら素敵、じゃあ私が困った時は守ってね」
「なんでそうなんだよ」
「だってアドニスくんよく言ってるじゃん、弱いものは強いものが守るべきだって」
「俺はアドニスじゃねえよ」

 先ほどまで機嫌よく笑っていたくせに、晃牙くんは不機嫌そうに顔を歪めると机の上に広げていたティッシュを爪ごと丸めて机の端へと追いやった。こうがごころとあきのそら、なんてとても口にできそうにない言葉が浮かんで、私は唾と一緒にそれを飲み込む。天気のようにころころと変わる晃牙くんの心模様は、はじめこそ戸惑ったものの半年も一緒にいたら大分に慣れてしまった。強いだとか、ロックと言われたら嬉しい。誰かと比較されたりバカにされることは嫌い。

「テメェの身くらいテメェで守れよ」
「いいもん困ったらアドニスくんに頼るから」
「なんでアドニスなんだよ」
「だってアドニスくん困って呼んだら駆けつけてくれそう」

 私がふざけて「アドニスくん助けてー」と言うと、本当にその瞬間に教室のドアが開いてカバンを背負ったアドニスくんが顔を出した。「まだ残っていたのか」と呆れ声と共にやってきたヒーローは、唖然とする私たちの顔を交互に見て「大丈夫か……?」と口にする。冗談のような、そして奇跡に近いタイミングにようやく感情が追いついて、私と晃牙くんは間抜けに開いた口から、ふっと息を吐く。そしてほぼ同時に笑い出すものだから、アドニスくんはさらに怪訝な顔をして私たちを見つめた。

「どうした、いきなり笑い出して」
「アドニスお前……カッケーよ、それはずりいよ」

 状況を読み込めてないアドニスくんは晃牙くんの言葉に首をひねって、困ったように私に目線を向ける。言えるはずもない状況に私は首を横にだけ振るって、大丈夫です、と伝える。「大丈夫ならそれでいい」とアドニスくんはふっと表情を和らげて、腕を組んだ。そして私を見下ろしてまた真顔に戻ると「まだ帰らないのか」と口にした。

「それがね、聞いておくれよアドニスくん。晃牙くん私が困ってるのに助けてくれないんだって」
「大神、それはよくない」
「うっせえよ俺様は孤高の狼なんだよ、誰が助けるか誰が」

 笑いすぎて目尻に滲んだ涙をぬぐいながら吠える晃牙くんを咎めるようにアドニスくんは鋭く目を細めて彼を見下ろす。「弱いものは守るべきだろう」真剣な声音に晃牙くんは「うっせえ自分で強くなれ」と突き放すような言葉を吐いた。アドニスくんはその言葉に目を丸くして、「確かに一理あるな、守るだけでは成長はできない」と悩ましげに顎に指を添える。眉間に刻まれた深い皺を見上げて「晃牙くんのそれは成長を願ってるんじゃなくて面倒臭がっているんだよ」と教えてあげると、晃牙くんが「なんだと?!」と噛み付く。しばらく黙考した後アドニスくんが至極真面目な声で「でも俺は弱いものを守りたい」と呟く。私もアドニスくんのそういう考え方はすきだよ。眉間の皺が刻まれていたところを見つめながら、私はふっと笑顔を零した。

「ところでお前は何に困っているんだ?」

 アドニスくんは思い出したように私の方を振り返る。沈潜してくれた彼に『もしもの話』なんて言えるはずもなく頭の中で言い訳を探した。困ったこと、困ったこと。考えあぐねいていると、彼は私が言葉を発するよりも早く「なるほど」と呟く。アドニスくんの目線の先にはまだまだ空欄が多い日誌。事の重大さをかみしめるように神妙に彼は呟いた。

「これは……難題だな」

 違うよアドニスくん、そうじゃないんだ。私の言い訳はどうやらツボに入ったらしい晃牙くんのやかましい笑い声にかき消されてしまった。

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