それは恋の音に似て_05

 その日から意図的に乙狩君にアピールすることをやめた。もともとさり気なく行っていたため、私がそれをやめても誰も気に留めなかったし、乙狩君もきっと気づいていないのだと思う。話しかけられたら話すし、誘われたらついていくことは変わりないのだけれど、自ら率先して彼に近づくのをやめた。幸いなことにこの前の席替えで乙狩君とは大きく席が離れてしまった。もうあの大きな背中を授業中に気にすることもないだろう。
 あれだけ高鳴っていた胸の震えは、今は切なくちくちくと痛むようになってしまった。「俺はお似合いだと思う」そうか乙狩君にはそう見えていたのか。油断すると胸の痛みが涙となって伝っていそうだから、そんなときはこぶしを握りこんで何とか耐え偲ぶのだ。

 晃牙君との日課も、私が乙狩君のアピールをやめだした頃に解散となった。なにか明確にやめよう、なんて号令があったわけではない。なんとなくガーデンテラスに足を運ぶことが億劫になった私と、同じように、今日はいかない、のメッセージを律儀におくる晃牙君の行動が相混じっての解散となったのだ。よくよく考えたら、あれだけ一緒にいたのならそう見えて当然だよね。晃牙君と私の中では「乙狩君の件について」なんて大前提があったけど、そんなことほかの人が知るわけがない。だから毎日のように顔を合わせてランチに勤しむ私たちの姿は、きっと恋人のように見えたのだろう。たぶん私が逆の立場で、そんな光景を毎日目の当りにしたら、そういう誤解をしてしまうよなあと、ようやく分かったころにはすべておそかったけど。

 なんだかせつないなあ、と、その日も恋心を引きずりながら四時限目の終わりのチャイムを聞いた。先生は教材を抱えて教室を出ていき、開放感にあふれたクラスメイトの歓声があちらこちらから聞こえる。そんな歓声の間を縫うようにお弁当箱を持った私は教室を出た。今日はどこで食べようか。なんとなく人目に付きたくなくて、私は屋上へと続く階段の方へつま先を向けた。あそこならきっと誰もいないはず。廊下で食べるのは褒められた行為ではないけれど、なんとなくもう、いろんなことがどうでもよかった。

 自暴自棄に屋上手前まで来てみると、そこには先客がいた。購買で買ったパンをむさぼりながら晃牙君は私を見ると、さほど驚きもしない様子で、よう、と一言声をかけてくる。そして当たり前のように散らばらせていたパンを片付けたので、私は空いたスペースに腰を下ろした。こうして二人で食べるなんて随分と久しぶりな気がする。何を話していいかわからずに膝の上でお弁当の包みをほどくと、晃牙君はパンを飲み込んで、じいと私の方を見詰めた。

「アドニスとはどうなんだよ」
「話してない」
「そうか」

 晃牙君はそれ以上何も言わず、また一口パンをむさぼった。どうやらカレーパンらしく、辺りにカレー独特の食欲をそそる香りが漂う。そういえば最初の報告会もカレー食べてたっけ。数か月も経っていないはずなのに随分と昔に感じられて、胸の奥がつんと痛む。思わずお箸箱を掴むと、かしゃり、とそれは声をあげた。

「折角協力してくれたのに、ごめんね」

 平然と伝えるつもりだったのに心の奥底から絞り出した言葉は、涙とともにぼろぼろと溢れ出た。そう、きっとあのたった一言で壊れるようなもろい恋だったのだ。だからきっと遅かれ早かれこうなってたはず。なのに私は晃牙くんを振り回してしまった。本当に馬鹿だ。穴があったら入りたい。
 プラスチックの弁当箱に顔をうずめて鼻をすすると、晃牙君は神妙に、まだアドニスのことが好きなのかよ、と尋ねてきた。乙狩君の姿が脳裏に浮かぶ。夕日に浮かんだ姿、教室の何気ない笑顔、ほかにもたくさん、この恋を経て彼のことを知った。好きだよ、どうしようもなく好きだよ。鼻声交じりに、うん、とつぶやくと、晃牙くんの、よかった、の声とともにビニールがつぶされる音が響いた。

「お前ら二人でちゃんと話し合えよ」

 それは私に向けられた言葉だと思って、涙に塗れた顔をあげて晃牙君を見ると彼は私ではなく、真っすぐと前を見据えていた。その目線の軌跡をたどる様に前方に目をやれば、

「乙狩君」

 真剣な面持ちで晃牙くんを見据えている乙狩君が立っていた。一体いつからその場にいたのだろう。彼も昼食が入っているであろうビニールをぶら下げて、力強く晃牙君に大きく頷いた。晃牙くんはまだ残っているパンをレジ袋に詰めるとそのまま階段を下りていく。私に聞こえない声量で乙狩君の隣でいくつか言葉を交わして、そうして泣きべその私を一瞥して、笑った。

「じゃあな」

 姿の見えなくなった彼の足音だけが廊下に響く。未だに状況の飲み込めない私に乙狩君は近付くと、先ほどまで晃牙くんが座っていたスペースにどっかりと腰を下ろした。情けない姿まで見られて、もういっそのこと穴に埋めてほしかった。未だにおさまらない涙を乱暴に袖で拭うと、それに気が付いたアドニス君はポケットからハンカチを取り出して私に差し出す。

「……よければ」

 私が受け取ろうと手を伸ばしたところで、乙狩君は、いや、と言葉を切り、私と乙狩君のちょうど真ん中に左手を付いた。そして身を乗り出す形でハンカチをそっと私の頬にあてる。行き場のなくなった手を下ろして、両手でしかりと弁当箱を掴むと、アドニス君はさらに身をこちらに寄せて、優しく丁寧に涙の跡をなぞった。

「すまない、お前の様子がおかしかったから追ってきてしまった、その、聞くつもりはなかったんだ」

 身を強張らせる私に乙狩君は申し訳なさそうに言葉を切りながらそう言った。ああ聞いていたのか。胸がきりきりと痛む。もう隠す必要もないのね。ぽろり、とまた新しい滴を目から零すと、アドニス君はすかさずそれをハンカチで拭い、泣かないでくれ、と一言困惑したようにつぶやいた。

「俺は、大神ほど気が利く男ではない」

 悲痛でもあり、真剣でもある。初めてこれだけ間近に見た彼の瞳は、沢山の色を浮かべながら私をしかりと捉えていた。乙狩君、と私が彼の名前をなぞると、彼は離れるでもなく身を半歩分こちらへ寄せて、今度はハンカチ越しではなく、直接、私の頬に触れた。優しく、いたわる様に何度も頬に指を滑らせる。その間もとどめなく涙は流れるので、乙狩君はそのたび指先で拭い、滴を頬に撫でつけた。

「あの日から、俺の気のせいだろうか、お前がそばに居なくなった気がする」

 ああやはり。揺れる琥珀色を見つめながら私はぼんやりと思う。ばれていたのか、彼には。ということは今までのアピールはあからさまだったってこと?それはそれで恐ろしい話ではあるけど。震える声で絞り出した相槌に、彼は一瞬押し黙り目を伏せた。そして私の顔を窺うように口を開いて、そして閉じる。言い辛いことなのだろうか。もう一度乙狩君が口を開いて、その、と言葉を置くと、彼は首を横に振って、すまない、と一言謝った。

「……お前は、俺のことが好きだといった」

 その言葉を聞いて、反射的に身を引こうとする私に、乙狩君は、逃げないでくれ、と一言呟いた。そして頬から手を離すと、私の手に、自らの手を重ねる。拘束されているわけでもないのに、彼の真っすぐな視線が逃げることを許してくれない気がしていた。

「あの日から、お前の姿がやけに視界に映る、気になって追ってしまう、胸も痛い、大神に相談したらそれはお前に伝えろと」

 彼の伝える一言一言が、私の心を大きく揺さぶる。気になって追う?胸が痛い?うそでしょ。先ほどまで切なく軋んでいた胸が、小さくだけど確かにあの頃の高揚感を取り戻していた。走馬燈のように浮かぶ彼の姿。恋をした瞬間、恋を確信した瞬間、恋を諦めた瞬間。ストップモーションのように一枚一枚切り替わる様に彼の姿が脳裏に映し出された。彼も、私にそれを感じていたというのか。目を丸くする私などお構いなしに、乙狩君は私の掌の上に添えた手の力を少しだけ強くした。

「話をしよう、お前の気持ちを、俺にも教えてくれないか」

 どくり、と眠っていた恋心がまた大きく芽吹きだす。高鳴る鼓動と彼の真剣なまなざしを体いっぱいに感じながら、大きく、力強く私は頷いた。

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