チョコレイトはスペードの形_03
今日も、渡せなかった。先輩と別れて教室へ戻ると、もう既に教室には誰もいなかった。わかってはいたけれどもやはり落胆のため息を吐いてしまう。アドニスくんがいないところを見ると、今日は陸上部の練習か。いつも三人で集まる机に伸びる影は一つだけ。がらんどうな教室はいつもよりも何処かよそよそしく、冷たい。不意にこみ上げる寂しさが涙として漏れそうになるから、ぐっと息を止めてそれを耐える。このまま渡さなかったらどうなるのだろう。時間が止まればいいのに。先ほどまで見つめていた先輩の笑顔が私の心をぎりぎりと締め付ける。その場にしゃがみこんで、泣かないように必死に下唇をかみながら、深く長い息を吐く。お願いだよ先輩、卒業しないで。ずっと私を見守っていてよ。次第に鼻声になる吐息を感じながら、ちょっとくらい泣いてもいいのかもしれない、なんて甘い考えがよぎる。誰もいないのだから問題はないだろう。ハンカチを取ろうとうつむいていた顔を上げるとーー全く気がつかなかった。目と鼻の先に朔間先輩の顔があったから、私は悲鳴をあげながら大きな尻餅をうってしまった。
「驚かせてしまったな?」
「せ、せせせ、せんぱ、なん!なんで!いるならいるって言ってくださいよ!」
先ほどの涙は驚きのあまり引っ込んでしまったらしい。朔間先輩は立ち上がるとひどくおかしそうに笑いながら座り込む私を引っ張り上げてくれた。
「驚かせるつもりはなかったんじゃが、忘れ物があってのう」
「忘れ物?ここにですか?」
「そうじゃ、のう嬢ちゃん、我輩に渡すものがあるのだろう?」
彼の言葉を聞いた途端、私の顔から血の気が引く。なんで知っているんだこの人は。掠れた声で、なんのことですか、と絞り出すと、彼の赤い瞳が細まり、真剣な声音で名前を呼ばれる。やだ、そんな風に呼ばないで。彼の綺麗な口が開き、また私の名前をなぞる。ずるい、そんな風に呼ぶなんて、ずるい。まっすぐに私を射抜く赤い瞳は視線をそらす事を許してはくれない。思わず後ずさって一歩引く私の腰に、机ががつんと当たる。机の上に置いてあったカバンが揺れる。がさりと音を立てたのはあの小箱だろうか。悟られてはいけないと、私は口を真一文字に結ぶ。
「何をそんなに怖がる」
先輩は一歩、また一歩と歩み寄り、私の机の上に手を置く。いつも飄々としているのに、そんな一片のかけらさえ見せないほど、今の彼は恐ろしくーー美しかった。先輩はただただ私を射抜くように見つめ、言葉を待つ。いつも普通に喋れているはずなのに、緊張して声が震える。言葉にならない音を口からポロポロこぼすと、先輩はおもむろに手を伸ばし、私の髪の毛に触れた。
「ゆっくりで良いよ、嬢ちゃんの、気持ちが知りたい」
「……渡したら、終わっちゃうような気がして」
「終わる?」
震える声で絞り出した言葉は、予想以上に弱々しく空気を震わせた。先輩は私の言葉をなぞるように繰り返し、どういうことかえ、と私の髪を指先に絡ませた。つんとした、小さい鋭い痛みが私を襲う。睨みつけるように見上げると、朔間先輩はいつもの飄々とした態度で微笑み、言ってごらん、と驚くほど優しく私に説いた。
「だって先輩、卒業しちゃうし」
「卒業したら終わりなのかえ?」
「終わりでしょう、だって、会うことももう、ないし」
「寂しいことを」
心外だ、と言わんばかりに彼は顔を歪ませて、私の髪の毛から手を離した。いつも晃牙くんが座っている、正面の椅子を引いてそこに腰掛ける。呆然と見つめる私に、おすわり、と一言口にした。私が自分の椅子に腰掛けると、朔間先輩は机の上にあったカバンを床へ下ろして、表情を柔く崩した。
「嬢ちゃんが望むなら留年もやぶさかではないぞ?」
「それだけはやめてください」
「冗談じゃろうに」
「冗談に聞こえません」
ふと、先輩の目線が私から、床に降ろした私のカバンへと移る。じいとカバンを見つめて、そして私に再度視線を戻す。ないですよ、と私が口にすると先輩は眉をひそめ、強情め、と忌々しそうに言葉を吐いた。だって渡したら、先輩が本当にいなくなっちゃいそうじゃないですか。胸に灯ったそんな言葉が、私の心を激しく揺さぶりかける。ただ息を吸っただけなのに、喉が震える。込み上げてくる何かがこぼれ落ちそうになったその瞬間、先輩は優しく私の頭を撫でた。ああもうだめだ。堰を切ったように流れる涙はぼたりぼたりと、情けない水たまりを作る。
「せんぱい、そつぎょうしちゃ、やだあ」
「時間の流れは止められんよ、わかっておくれ」
「だって、せんぱ、せんぱいがいないと、わたし、ほんと、もう」
「そこまで乞われると悪い気はせんが」
からからと笑う先輩の声が聞こえる。本当だよ、嘘じゃないよ。いろんなことが不安だったこの一年。たくさんの人と手を取り歩いたけど、導いてくれたのは他でもない先輩だった。本当は笑って見送るはずだったのに。泣きじゃくる私に彼はポケットから折り目正しいハンカチを取り出して、乱暴に涙を拭う。ぶっさいくじゃのう、と先輩は私の涙をぬぐいながら笑う。無性に腹が立って先輩の足を軽く蹴ると、彼はそれすらおかしそうに笑い、ハンカチを私に押し付けた。
「これは我輩からのバレンタインじゃ」
「はんかちがですか?」
「そうじゃ、これで我輩がいなくとも涙は拭えるじゃろう?」
ぐずり、と返事代わりに鼻を鳴らすと、先輩は優しく微笑み、そうして私の頭を数度撫でた。
「我輩以外に涙を拭われるのは癪じゃし、常に持ち歩くんじゃよ」
「そんな泣き虫じゃないですけど」
「そんな顔をしてよく言う」
そして朔間先輩は私の涙を指先でぬぐい、じいと私の瞳を見る。あれだけ一緒にいたのに、こんな間近で彼の姿を見るのは初めてな気がする。私も導かれるように彼の瞳をじいと見つめた。がたり、と正面の椅子が鳴く。先輩の顔が近づいてくる。思わず息を止めて顔をこわばらせる私に、彼はピタリと動きを止め
「――続きはまた、卒業してから」
そして先輩は何も言わず、私の肩を抱き寄せた。突然のことに目を瞬かせると、目を覆っていた涙がぽろり、と頬を伝った。続きを信じていいんですか、涙声でつぶやく私に、先輩は、当たり前じゃろう、とさらに強く私を抱きしめる。彼の体温が、そしてもう間近に迫る春のやるせない暖かさが、私の体を穏やかに包む。
待ってます、と私は呟いて彼の肩口に顔を寄せた。先輩は黙って頷いて、私に倣うように彼も肩口に顔を埋める。先輩から、ほんのりと春の香りがした。それは想像していたよりも暖かで、あまりに優しい香りだったから、少しだけまた、涙を零した。