私の大好きなアイドル_01

 よく晴れた冬の空に、暖かな春の風が踊る。春の風は命を運び、季節を加速させて、また新たな命を吹き込む。剣呑としていた先輩方は凛々しく顔を揃え、そんな先輩たちの元で無邪気に騒ぐ下級生たちも今日だけは大人びた顔で皆を見送る。春の、砂塵を交えた風が吹き荒れた。風に踊らされるように桜の花が、まるで先輩方の新しい門出を祝福するように舞い降りる。ある人はそれを見て未来を夢想し、ある人は過去を振り返り郷愁に浸る。桜の花びらはそれぞれの想いを一身に受け止めて、この祝いの場を淡く彩っている。

 今日は、卒業式。

「先輩、羽風先輩」
「お、もう会えないかと思った」
「それは私のセリフなんですけど」
「そう?でも最後にあえてよかった」

 丁度靴箱の裏手、誰もこないようなひっそりとしたところに、彼は佇んでいた。どうやら桜の木を見ていたらしい。立派に根を張った桜はちらちらと花びらを落としながら、私たちを見守っている。先輩は桜の木から私へと目線を移してにこりと笑う。その笑みがあまりに綺麗で儚くて、一瞬息を飲んでしまう。いつものへらりとした笑みを浮かべてくれたらよかったものの。ああ、彼はやはり”先輩”なのだと思うほどに大人びた表情をしていた。
 私は歩調を少し早めて羽風先輩へと歩み寄った。彼はそんな私を見て、体重を預けていた壁から、ゆっくりと身を起こす。君から近づいてきてくれるなんてねえ。冗談のようにこぼす笑顔が、切ない。

「私、先輩に文句があるんです」
「え?祝詞ではなく?」
「むしろ呪詛です」

 呪詛って。私の口から飛び出たおどろおどろしい響きに羽風先輩は一瞬目を丸くして慄いたが、厳しい表情を見るなり、彼は諦めたように苦笑を浮かべた。思い当たる節が幾つかあるのだろう。どれかなあ、なんて言葉を口にしながらじっと私を見据える。羽風先輩から足跡二つ分離れたところで、私は立ち止まる。視界の隅でちらりちらりと花びらが舞い降りる。春の暖かな風が、穏やかに私と羽風先輩を包む。

「君には迷惑たくさんかけたし、いいよ聞くよ」

 彼がそう口にするので、私は思わず顔を強張らせてしまった。優しい彼ならきっとどんな話でも聞いてくれるだろうと踏んでいたのだが、やはり面と向かって言われてしまったら少し、躊躇してしまう。それでも。一度顔をうつむかせて、意を決したように私は顔を羽風先輩に向ける。羽風先輩は慈しむような目線で、こちらを見ている。その視線の優しさに涙腺が緩んでしまいそうになったが……なんとか押しとどめた。

「……一年間、ありがとうございました」

 一瞬ぽかん、と表情を止めた先輩は、戸惑いながら、こちらこそありがとね、と首をかしげた。やっぱり祝詞じゃん、と笑う先輩を一度睨み付けると、私は大きく息を吸い込んだ。今ここで言わないと後悔する。これは私のエゴだ。散々振り回してきた先輩への、小さな、反撃だ。

「思えばこの一年、先輩はずっと、私が必死にずーっとプロデュースしてるそばからちょっかいかけてきたり邪魔してきましたよね」

 先輩の表情から笑みが消えて、少し悲しそうに目を伏せながら、うん、と呟く。その表情に次の言葉を仕舞いかけるが、いいやここで言うんだ、と自分自身を鼓舞する。

「だいたい好きってなんですかこちとら全生徒のプロデュースをしてるのに誰か一人を特別に見るなんてできないし、言い寄ってきたかとおもえばなんですか返礼祭のあれ、勝手にさよならみたいな、ほんと、羽風先輩らしいですけど」

 流れるような春の桜の雨が、裏庭に降り注ぐ。風に煽られた花びらは羽風先輩へ、私へ、降り注ぐ。少し強い風に私が髪の毛を抑えると、彼も同じように襟足を抑えて、それでも私から目線を外さない。あまりに真っ直ぐな視線に耐えきれなくなって、不意に目線を外すと、ごめんね、という彼の言葉が私に降り注ぐ。胸のうちから溢れ出る何かが、鼻を鋭く刺す。つん、とした痛みに耐えながら、もう一度彼にピントを合わせて、私、と口火を切った。

「今日をずっと待ってたんです、先輩が私のプロデュースの担当から離れるのを」

 もう私は彼の担当ではない。一人の人間として、アイドルではない羽風薫と向き合っている。私の言葉にどうやら羽風先輩は何を言わんとするか気がついたようで、少しだけ姿勢を正した。優しく彼が私の名前を呼ぶ。私はそれに応えるように、言葉を続けた。

「羽風先輩好きです、ちょっかいかけるし邪魔するけど、誰よりも気にかけてくれて、優しくて、ずっと、大好きでした」
「今更、そんなこと言われても困るんだけど」
「一年間私をずっと困らせてきたんですから、少しぐらい困ってください」
「……そうだね」

 ごめんね、彼が小さな小さな声量で、謝罪を口にする。私は笑って、でも嫌じゃなかったです、というと、本当にかなわないなあ、と表情を崩した。
 告白して、返事がほしいとは思わない。むしろ今まで塩対応の連続だったんだ。見返りなんてあるわけがない。でも、伝えられる最後のチャンスだから。私がきっと先輩と、こうして向かい合える最後のチャンスだから。
 一度目を伏せて、しっかりと羽風先輩を見据える。彼も同じように、私を力強く見つめ返す。普段から沢山目があってきたはずなのに、なぜだか今初めて、ちゃんと目があった気がする。沢山見てきたのに、沢山見られたはずなのに。絡んだ視線が妙に新鮮で、そして、愛おしく感じた。

「今度は、私が追いかける番です」
「うん」
「もしかしたら、私はプロデューサーになれないかもしれないです、なったとしてもあなたと出会うことはもうないかもしれない」
「……うん」
「だから」

 最後に言いたかったんです、大好きって。準備していた一番伝えたかった言葉は、口にしようとすると、なぜか言葉よりも先に、涙がぼろぼろと溢れてきた。泣かないと決めたはずなのに。止めようとするたびに涙が溢れて、止まらない。乱暴にブレザーの袖口で目をこすると、だめ、という声とともに、土を蹴る音。掴まれる腕。羽風先輩は私の腕をそっと下ろして、ポケットからハンカチを取り出し、涙を拭ってくれた。

「いいことを教えてあげる、虚勢をはる時に泣いちゃダメだよ」
「なんでですか」
「惹かれちゃうから」

 ひかれ……?と私が口を開くよりも先に、羽風先輩がぽんぽん、と私の頭を撫でて、人差し指を自分の口元にあてて、しい、と一言呟いた。その余裕がなぜだか悔しくて、羽風先輩から目を背ける。

「身辺整理したなら、少しくらい空きがあるでしょうに」
「未来のファンの子達のための席だからねえ、君が座れる席はないかな?」

 精一杯の悪態に、羽風先輩がにこりと正論を吐く。まあ、そりゃそうだ。自分の口に出した言葉が恥ずかしくて閉口していると、それに、と羽風先輩は言葉を続ける。

「君のための席は”そういうところ”じゃないでしょ」

 そう言うや否や、彼は私の左手をとり、丁度薬指の付け根に軽く口付けた。突然の柔い感触に驚く私に、先輩は、お返し、と悪戯に笑みを零す。

「……また、会いに来てください」
「うん、行くよ、呼ばれなくても」
「ずっと応援してます、ずっと好きでいます。先輩は私の、一番のアイドルです」
「そりゃ僥倖だ」

 けらけらと笑い、彼はハンカチを私に押し付ける。今度会った時に返して。そう羽風先輩は優しく笑む。

「大好きだよ」
「私も、大好きです……卒業おめでとうございます」

 ああ、ようやく言えたんだ。涙に塗れた顔を拭って一礼すると、先輩は笑って口を開いた。
春の風に乗って桜が舞う。ごうごうと強い風に乗って、彼の、私の好きな彼の言葉が、耳に届いた。

 遊びに行くよ、そしてまた君に出会って、恋に落ちるから。

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