あなたは私の優しいヒーロー_03

 学院で泣いたのは、あの春の雨の日の一度だけだ。雲ひとつない、晴れた空の下を歩きながら私は思う。あの日が最初で、最後。誰かに弱みを見せるのも、最初で最後。ガーデンテラスを抜けて、人気のない方向へ足を向ける。そろそろ冷たくなってきた木枯らしと、台風を知らせる天気予報が、秋の足音を教えてくれる。一等高くなった空を見上げて、ストールを肩にかけながら私は歩き続ける。
 丁重に揃えられた植木を飛び越え、木の間を潜り、最近新たに見つけた小さな学院の隙間、誰もいないがらんどうな空間に私は腰を下ろした。この学院はやけに広いから、こういう人のあまりいない場所というのがところ各所に存在する。

 そう、人前で泣いたのはあの一度だけだ。だから今日はノーカン。私は大樹に身を預けて長く細く息を吐いた。体育座りのように足を折り曲げて、今日起きたことを頭の中でクルクルと回す。どうも間の悪い日というのは存在しているようで、椚先生のお小言や重なった仕事に私の心はべこべこに凹んでしまった。秋晴れの空に落ちる影はゆらゆら、水面のように揺れて光をこぼす。そのリズムに合わせて、私はボロボロと涙をこぼす。拭うこともせずに、空を仰ぎながら、ただただ一人涙を流す。バックから保冷剤とタオルを取り出し、目元に当てた。これできっと泣いたことはばれない。ぐずりと大きく鼻をならし、情けないなあ、と言葉を漏らす。こんな姿誰にも見せられない。

 大きく一度鼻を鳴らすと、近くから私を呼ぶ声がした。私はタオルを目元から退けて、あたりを見回す。誰もいない。空耳かしら。ぐずりと鼻をすすると、また遠慮がちに私の名前を呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。

「アドニスくん」

 私がきっと声の主であろう名前を呼ぶと目の前の垣根ががさがさと揺れた。そして垣根と垣根の隙間から彼の大きな図体が現れた。アドニスくんは付着した木の葉を軽く手で払うと、涙をこぼす私の元に大股で駆け寄り、腰を下ろす。なんでこの人は、こんな私を見つけるのが上手いのだろう。見られたくなくて、知られたくなくて、でも心のどこかでは誰かに助けてほしくて、浅ましい気持ちと恥ずかしい気持ちが相まったもやもやは、涙となってどんどん溢れ出てくる。

 春の雨の、教室で泣きわめいた日。あの頃は、彼だけではない、周りの人に「プロデューサー」と認められたくて、がむしゃらだった。彼が認めてくれた夏の暑い日。あの日、私は彼には「プロデューサー」と思われたくないのだと、自覚してしまった。遠くの記憶が脳裏を駆け巡る。私はどういう立場で彼と向き合えばいいのだろう。いや、答えはもう出ているのだ。私は彼を支える側。影となって彼を輝かせるのが私の役目だ。そう考えるとまた涙が溢れてきて、やだ、と言葉を漏らした。見ないでほしい。ひたすら嗚咽する私に対して、アドニスくんは黙って背中に手を回して背中をさすってくれた。

「大丈夫だから、やめて」
「お前の、そんな言葉を聞くのは久しぶりだな」

 突っぱねるような言葉ってこと?私が首をかしげると、彼は一度大きく頷いた。そして懐かしい、と笑みを零して、空いているほうの手で私のタオルをとり、優しく涙を拭ってくれた。

「泣いてるところを見るのは、二回目だな」
「覚えてたんだ」
「そうだな」

 忘れることはできない、と彼は言った。彼があまりに柔和な笑みを浮かべるから、私が今まで心の中に沈めていた言葉が、一気に涙として溢れ出す。

「ごめんね」
「なぜ謝る」

 アドニスくんは優しい声音で問いかける。今まで白状できなかった気持ちが、心の奥底に沈めていた愚かしい私が、胸いっぱいに溢れ出す。指先がぶるぶる震える。アドニスくんは目ざとくそれを見つけて、涙を拭うのをやめ私の膝の上にタオルを置くと、震えた指先を優しく握ってくれた。

「ずっと謝りたかったの」
「なにをだ?」
「私、ずっとアドニスくんがよくしてくれたの突っぱねてて、一人じゃ何にもできないくせにね」
「お前はよくやってる」
「ごめんね、気を使わなくてもいいよ、だめなのは、私が知ってる」

 乱暴に涙をブレザーの袖でこすり、彼を見上げる。アドニスくんは背中をさすっていた手を止めて、私の頬の輪郭を指でなぞる。ごつごつとした大きな手が触れるたび、胸の内の黒い塊が融解して、涙となったまた溢れる。

「俺はあの日、お前の世話はやかないといったが」

 アドニスくんは表情を柔く崩した。そして私の腰を掴むと思い切り自分の胸へと引き寄せた。ごつんとぶつかる胸と頭に、私は驚きとそして痛みに数回瞬きをする。握っていた手を離して、そのまま私の背中をしかりと包むと、アドニスくんは私の名前を呼ぶ。つられるように彼を見上げる。紫紺の瞳には、あの日と同じように、情けない私が写っていた。

「その言葉を守ってきたつもりだ、お前が一人で動きたいのなら邪魔をしないようにしてきた、つもりだ。確かにお前は強くなった。ライブの準備やユニットの衣装や、ステージの設営や、なんでも器用にこなせるようになった」

 彼が顔をくしゃりと歪める。心なしか震えているような気がして、アドニスくん、と私は彼の名前を呼ぶ。アドニスくんは自分の顔を私の肩口に寄せて、さらに深く私を抱きしめた。どくりどくりと、彼の心臓の音が聞こえる。暖かな彼の体温が私の体を温める。風に揺れる木漏れ日と、穏やかな小鳥の声と、私の嗚咽がこの空間にただただ響く。ぼろぼろと未だに涙をこぼしながら彼の次の言葉を待った。

「お前は、器用になった。出会った頃はずっと頼りなく、いろいろな人に振り回されていたお前が、少しずつ先導するようになって、俺は嬉しかった。今やアイドル科でお前の名前を知らないものはいないだろう。それだけのことをお前はやってのけた」

 だが。彼が言葉を切る。ぎり、とまた抱きしめる力が強くなる。少しだけ息苦しくなって、彼のブレザーの裾をぎゅっと握ると、私の肩に暖かな重みが降ってきた。どうやら肩に顔を埋めているらしい。

「お前は器用になった、同時に、お前は弱いところを見せなくなった……だからこうして一人で泣くんだろう」

 彼の震えが大きくなる。掴んでいたブレザーの裾を手放して彼に手を回すと、アドニスくんの体は一度、びくりと震えた。肩口から離れる重み、抱きしめる力はほんの少しだけ解け、彼はじいと私の涙にまみれた顔を見つめる。彼は少しだけ言葉を放つのをためらうような素振りをした。しかし一筋、私の頬に涙が流れると、私の背に回していた手で涙を掬う。

「俺に、お前の……弱いお前を守らせてくれ」

 俺に、俺だけに。響いた言葉はとても優しく、あの時、無条件で守ってくれていた頃の言葉とは違う響きがあった。それはもしかしたら無意識に彼がずっと持っていたのかもしれないし、一緒に過ごすうちに芽生えたものかもしれない。ただその言葉の響きが一等に優しくて、いらない、と突っぱねようとしていた言葉の殻が音を立てて壊れていく。

「私、多分またアドニスくんを突っぱねるよ」
「そうだろうな」
「多分甘えちゃうし、泣き虫だし、嫌になるよ」
「大丈夫だ、お前が無理をしたり、一人で泣くほうが、俺は困る」
「なんで」

 なんで、なんて本当はわかっているくせに。気持ちが伝わったのか、アドニスくんも困ったように笑い、

「俺は最初から言ってる、お前を守ると」
「それは弱いから?女の子だから?」
「お前だからだ」

 穏やかな風が吹く。落ち葉が風にあおられて舞い上がり踊りながら地面へと落ちる。そういえば出会った頃も、あの頃は桜だったけど、こんな風な日だった。冬服が夏服になり、また冬服に戻り、随分と時間が経ってしまった。でもアドニスくんは、一つの思いを、信念をずっと貫いてきてくれたのだ。

「お前を、守らせてくれ」

 素直に頷くだけで、随分と時間がかかってしまった。ごめんね、と私が口にすると、彼は優しく、でも有無を言わせない強い口調で、もう謝るな、と一言言い置いて、私をゆっくりと抱き寄せた。優しい彼の暖かな体温を感じながら、私はきつく彼を抱きしめ返した。

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