あなたは私の優しいヒーロー_01

 褐色の肌、ガタイの良い体つき、そして……少しだけ怖い顔。乙狩アドニスとのファーストインプレッションは概ねそんなものだった。乙狩くんは私を見るなり何故かこちらへ歩み寄り、私も予想外の出来事に身を硬直させてただただ迫り来る巨体を見つめた。紫紺の瞳はねめつけるように私を見下ろし、ゆっくりと腕を振り上げた。不良だ、殴られる。身をさらに強張らせる私に、その振り上げられた腕は殴るでも掴みかかるでもなく、でも少し強い力で、私の肩に着陸した。

「困ったことがあればすぐに言え」

 開口一番がそれだった。名簿で名前は辛うじて知っているだけで、こうして言葉を交わすは初めてで。だから普通って自己紹介からするものじゃないの。混乱と驚きが混ぜ合わさった不思議な気持ちで私の口から出た言葉は、はあそうですか、なんて間抜けな言葉だった。乙狩くんは私のそんな返答を聞いても表情一つ変えず仏頂面を貫き通しながら、弱いものは俺が守る、と言葉を置いて颯爽と去っていった。一人残された私は、その意味を咀嚼しようとぐるぐる頭の中で回してみるが、唐突すぎてやはりちょっと理解できない。去り行く大きな背中を見つめながら私はただただ首を傾げながら彼を見送った。
 四月。桜の花びらが躍り舞う季節。穏やかなピンクの花吹雪に吹かれながら、この人は少し変な人なのかな、と思った。それが初対面のある1日。

 乙狩くんは先の宣言通り、事あるごとに私の世話を焼いてくれた。世話焼きは他にもいくらかいたのだが、彼は断トツのそれだった。昼になるとパンをくれ、うつらうつらと船を漕ぎ始めるとそうっと上着をかけてくれて、事あるごとに、どうした、大丈夫か、を繰り返す彼に、今までこんなに誰かに構ってもらう事のなかった私は、お恥ずかしい話だけれども少しだけ彼に辟易していた。もちろん当初右も左もわからない状態の頃は彼の優しさがただ単純に嬉しかったし、もしかして甘酸っぱい青春?なんて胸をときめかせた頃もあったけれどーー彼が同様に後輩に対して世話をやいているのを見てその幻想は早々に打ち砕かれたのだがーー「女」であるだけで無条件に甘やかされるのは、やはり気分が良いものではない。

 プロデューサーとしての自我の芽が生え始めて、小さなプライドが蕾を付け出した頃、私はその乙狩くんの無償の優しさから、逃げるようになっていた。

「乙狩くん、私、このくらいは自分でできるよ」
「ご飯持ってるし、乙狩くんが食べなよ」

 可愛げのない言葉だと思う。だけど「やんわり断る」という技術を持っていない私は、どうしてもぶっきらぼうに彼の優しさを押し返してしまう。彼の曇る表情を見るたびに心の中で、ごめん、と謝った。でも、それを口に出してはいけない気がした。謝るくらいなら彼の優しさを享受するべきだと思ったからだ。精一杯の虚勢を張って、一人でできます、大丈夫です、と繰り返す。彼の寂しそうな顔を目にするたびちくりと刺す胸の痛みを、頬の裏肉を噛みながら相殺する。ごめんね乙狩くん。決して言葉にならない思いは胸の内で反響する。それでも彼はめげずに私の世話を焼こうとするし、私は強情にもそれを突っぱねるのだ。

 クラスで、「のれんに腕押しコンビ」だと影で囁かれているのは知っている。少しはアドニス殿に優しくしてみたらどうだと、神崎くんに言われたこともある。でもどうしてもできなかった。彼の優しさに甘えれるほど大人ではなかったのも要因のひとつだけれど、なによりこの男子ばかりの学園で、女の子でも立派にやっていけるんだという、そんなくだらない、小さな自信を持ちたかったのだ。

 その日も私は過度な量の仕事を抱えていて、フラフラになりながらなんとかタスクをこなしていた。毎日寝てはいるものの十分な睡眠時間はとれていない。授業だって上の空だ。これじゃ本末転倒だよ、と思いつつも必要な書類の製作に手をつける。寝不足の頭はチクタクと響く時計の音さえ神経を少しずつ、でも確かに逆撫でしていく。ここに誰もいなくてよかったと、せわしなくペンを回しながら要項を読み込む。不意にかたりかたりとなる窓の音を聞いて顔を上げた。曇天の空は太陽の光を通さない。時間を追って暗くなる空に一つ、また一つと街灯が点りはじめる。夜が来るのだ。夜。夜と聞いて真っ先に思い出す顔を、頭を振って追い返す。助けてくれたらなんて一瞬でもよぎってしまった。そんな権利、あるはずもないのに。

「UNDEADは、今日活動日だっけ」
「違うぞ」

 突然に聞こえた声に肩を震わす。ひとりごちた言葉に返答をくれたのは紛れもなく先ほど思い浮かべた人物で、ジャージ姿で教室の前に佇んでいる乙狩くんは私の顔をじいと見て、顔色が悪い、と一言怒るように顔をしかめながら言葉を吐き捨てた。私は顔を緩く振り、大丈夫です、と短く返す。いつもは寂しそうな顔をして折れるのに、今日に限って、大丈夫じゃないだろう、と彼は苛立たしそうに口にした。こうして反論されることはなかったので、私は口を噤むが、彼はお構い無しにずかずかと私の机の前まで寄ると乱暴に私の手を引いた。途端に机から書類が零れ落ちる。ひらひら、宙を泳ぐ書類を見ながら、なんとなく彼と出会った日のことを思い出した。

「やはり、顔色が悪い」

 彼は、端的に言葉を発する。そして口よりも先に行動で示す、そういう人だ。散らばった書類など気にもとめずに乙狩くんは掴んだ腕を離すことなく、じいと私を見つめる。離して、と私が反抗すると、彼は首を横に振って、それはできない、と顔をしかめながら言葉を吐いた。

「お前はすぐ無理をする」
「無理じゃないよ、書類書くだけだし」
「ちゃんと寝てるのか?」
「寝てるよ」

 本当か?彼は私の瞳を覗き込む。射抜くような視線に私は思わず顔をそらし、寝てるよ、と呟いた。嘘ではない……いつもの5割減の時間だけれど。言葉尻が弱々しく消えていったことに、彼は呆れたように肩をすくめた。そして私の拘束をとくと、落ちた書類を一枚一枚丁寧に拾い上げる。

「部活中?」
「いや、自主練だ」
「そう」

 最後の一枚の書類を拾い上げて彼は机の上にそれをまとめあげる。依然として、乙狩くんの表情は厳しい。バツが悪くなって視線を床に落とすと、彼の足が一歩、私に歩み寄るのが見えた。そしてもう一歩、また一歩。私のつま先と、彼のつま先がくっつきそうな距離に、乙狩くんがいる。触れていないのに、ぼんやりと彼の体温が肌を刺激する。

「お前が気にしていることを俺は知っている」

 唐突に彼が喋り出したので、顔を上げると、ちょうど目と鼻の先に乙狩くんが立っていた。紫紺の瞳に、狼狽する私の姿が映る。なんで突っぱねているのにいつも優しくしてくれるの、だとか、気にしてくれるのにいつもはねのけてごめんだとか、ふつふつと言葉が胸の中で暴れ出す。うっかり口に出てしまわないように口を真一文字に結ぶと、乙狩くんが腕を伸ばして机のに手をかける。机と乙狩くんに挟まれてしまった私は逃げ場がないことをようやく悟り、困る、と一言、相変わらず可愛くもない言葉を吐く。

「お前が困っていることも知っている、気にかけられるのを嫌がっていることも知っている」
「……そう」
「だから俺はお前を気にかけるのをやめようと思う」

 彼の言葉は鋭く尖り、私の心臓を大きく貫いた。ああ、願ったり叶ったりではないか。私はもともとそうありたかったのだ。大体女だからって気にかけすぎだし。そこまで私何もできない子供じゃない。なのになぜ。貫かれた傷から流れた血はそのまま胸へと溢れ、頼んでもいないのに目からぽろぽろと涙がこぼれた。乙狩くんは私の涙を見て一つ息を飲み、机に置いていた手を私の目元まで上げて、その指で涙を拭う。

「すまない、言葉足らずだった、そうじゃない、そうじゃないんだ」

 彼は口惜しそうに顔を歪めて、すまない、と目を伏せた。指先に乗った私の涙が、情けない私を写していた。構わなくていいよ。また私の口からまた、可愛げのない言葉がぽろりと溢れる。

「いい、そういうの、私だって一人でできる。皆頑張ってるのに、私だけ甘えるわけにはいかない」

 嗚咽交じりの情けない宣言に、乙狩くんは首を横に振って、そうじゃない、と彼は眉根を寄せる。彼の、机に置いている右手に体重が乗り、ぎしりと悲鳴をあげる。歯がゆそうに言葉を口の中で転がしながら、乙狩くんは一言一言、確かめるように声を出した。

「お前が頑張っているのは知っている、力に、なりたい」
「なんで、そんな優しいの、私が弱いから?女だから?」
「確かにお前は女であり弱い存在だ、でもそうじゃない俺は」

 乙狩くんは、私が今まで見たことのないような悲痛な顔をして、口を開いた。そこから言葉が続くことはなく、乙狩くんは沈黙を守ったまま、じいと私を見つめた。静かなのに、うるさい。悲鳴のように響く沈黙に、私はまた涙を溢れ出す。乙狩くんは私を抱きしめるでもなく立ち去るでもなく、机に手を置いたまま、ただ止まらない涙をぬぐいながら佇んでいた。私もただただ彼と机の間で、情けない声を上げながら涙を流していた。

 二人ぼっちの教室に雨音が響く。どうやら降り出してしまったらしい雨は、しとりしとり音を立てながら世界を濡らしていった。

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