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お皿を洗う話

 嬢ちゃんや、と声がするとき、それは大抵取り留めのないことが多い。それは今日あった些細な出来事だったりだとか、ちょっとした疑問点だったりとか、そんな小さな小さな話題のことが多いので、今日もそうだと思い私は声の方すら向かずに「なんですか」とだけ返事をした。
 蛇口から出るぬるいお湯に手のひらを濡らして、脇に置いてあった泡まみれの食器を一枚取り上げる。お湯の滝に通せばぼたぼたと重たそうな泡は流し台に落ちて排水溝に流れていった。手のひらでお皿の表面を撫でながら、私は次の言葉を待つ。しかしいくら待っても返事はこない。もう一枚、お皿の泡を流す。それでもなにも音はしない。
 三枚目のお皿を流し終えたところで、私は根負けして蛇口のお湯を止めて振り返った。背後にはにこにこと微笑みをたたえている零さんが立っている。ようやくこちらを向いた私の方へ跳ねるような足取りで寄れば、ぴたり、と身を寄せてきた。

「忙しいかの」
「お皿洗い終わってからでいいですか?」
「そのままで良いよ」

 零さんは私から離れると、いそいそと近くにあったカウンターチェアを持ってきて流し台の隣に置いた。そしてその上に座って、じいとこちらを見つめる。見つめてまた「嬢ちゃん」と私を呼ぶ。今度はしっかりと零さんの方を見つめながら「なんですか?」と答えれば、彼は嬉しそうに微笑むばかり。

「そこにいたら水がはねちゃいますよ」

 呆れて声を出せば零さんはおや?と首を傾げて流し台を見つめる。まだまだ沢山ある洗い物の山に目を瞬かせて、そしてこちらの顔をじいと見つめた。

「手伝おう」
「大丈夫です、お仕事でお疲れでしょう?休んでいてください」
「嬢ちゃんだって一緒じゃろう」
「私はいいんです、そういえば零さん、さっき何を言いかけてたんですか?」

 興味をそらせるようにそう尋ねれば、彼は目線を宙に泳がせた。その隙にまだ泡のついたスポンジを握る。手伝うったってこのキッチンにはスポンジは一つしかないし、流石にアイドルに手荒れするようなことはさせたくない。
 何度もスポンジを握り表面に泡を浮かばせてお皿を取り上げる。軽く水にさらして表面を撫でれば、隣にいた零さんは「ううん」と悩ましげに声を上げた。

「楽しいことがあったんじゃが」
「お仕事の話ですか?」
「そうじゃよ……嬢ちゃんが振り向いてくれんから忘れてしもうた」

 少し拗ねたような調子でそう言うのでお皿を撫でる手を止めて零さんを見れば、彼はわざとらしく唇を尖らせていた。が、すぐに耐えきれないように笑い出した。私もその笑顔につられて頬を緩める。
 蛇口をひねればまたぬるいお湯がさらさらと流れる。間断なく響く音に合わせて零さんがメロディを口ずさむ。水流の合間合間に聞こえる声に耳をそばだてながら、私はまたお皿の泡を落としていく。

 嬢ちゃんや、と声がするとき、それは大抵取り留めのないことが多い。大切な話はちゃんと名前で呼ぶ彼がそう呼ぶときは大抵、かまってほしいときであることも、わたしは知っている。

「嬢ちゃんや」
「なんですか?」
「……うん」

 ニコニコと笑顔を湛える零さんは、何をするでもなく嬉しそうにただただこちらを眺めていた。ぬるま湯のような幸福に身を沈めながら、私はまた、頬を緩めた。