DropFrame

オブリビオン

 忘れておくれ。そう口にしたのは、決して忘れてほしくなかったからだ。まだ彼女の瞳が一人の男としてではなく、気の良い先輩として、自分を映し出していた頃。どうにかして脱せないかと考えあぐねいていた、ある日の話だ。

 突然の雨に降られ校舎へと避難していた矢先に、彼女と出会った。丁度レッスンの帰りだったらしい。濡れ鼠状態の我輩を見るや否や、彼女はそのまま空き教室へと自分を押しやり、そうして世話焼きな性分の赴くままに丁寧に雨水を拭ってくれた。その一生懸命な瞳と、すぐ近くにある無防備な唇。
 理由なんて、それだけで十分だろう?
 騒ぎ立てるわけでもなく、忘れてほしいと願う要求を、彼女は驚くほど素直に飲み込んだ。あっけらかんとした彼女の性格を鑑みると予想できた反応だけれど、些か面白みがない。しかしそれから数日、彼女の瞳が尾を引いてることに気がついた。

 土俵に立てればそれで良かったのだ。たとえそこから先がなくとも『いい先輩』で終わるなんて、虫唾が走る。

 見慣れた彼女の文字が日誌を彩る。

『数学:小テストがありました。 古典:教室に虫が入ってきました』

 普段目にする企画書の大人びた文章ではない、年相応に綴られる彼女の日常が、随分と愛しく感じる。指先でそれらをなぞれば、こつん、と彼女のシャープペンシルの先が、爪に当たった。

「かけないです」

 彼女が眉を寄せる。「うん」と答えつつも、指を退かすつもりなど毛頭もない。彼女はそれを感じ取ってか、困ったようにこちらを一瞥し、すぐにほかの空欄へとシャーペンを走らせる。行き場のなくなった指先を手元に戻せば「暇なんですか?」と彼女の声。

「……そうじゃな」

 暇ではないよ。忘れ去られぬようにこうして出向いたりだとか、もうこの先短いともに過ごす時間を作ってみたりだとか、決して暇なわけではない。

「せっかくじゃし構っておくれ。嬢ちゃん」

 だからどうか、忘れないでおくれ。『良い先輩』ではなく『朔間零』という男が、嬢ちゃんの前にいたということを。