忘れておくれ、と彼はそう言った。水気が苦手な朔間先輩が雨に濡れていたから、慌てて空き教室へと連れて行った直後のことだ。
あの日の霧雨は、まるでカーテンのように外と部屋とを隔てていた。しとしとと断続的に続く音の中で、先輩は大人しく身をかがめて私に頭を差し出していた。上から下までずぶ濡れの状態だから、彼が歩いた軌跡には小さな水たまりが点在している。私はそんな先輩にフェイスタオルをかぶせて、せっせと髪の毛の水気を取っていた。弱っているのか、それとも単に世話を焼かれるのになれているのか、彼は黙ってただただその厚意を享受している。巻かれている髪が、雨に濡れてしなっている。顔に近づけば、香水だろうか、少し甘い香りが鼻先を掠めた。
ほんの一瞬の話だ。髪の毛を痛めないようにタオルで挟むように水気を取っていた私の唇に、暖かななにかが触れた。瞬きよりも早く、唇からそれは離れる。
彼は紅の瞳を細めながら「すまん」と口にする。
「……すまん、嬢ちゃん」
そこで私は初めて、ああ触れたのは唇だったのか、と初めて気がついた。
「忘れて、おくれ」
朔間先輩はそう、先ほど触れあった唇から、そう言葉を零した。いつもの飄々とした態度は鳴りを潜め、勿体ぶるように緩慢と、そう言葉を紡ぐ。
「……ええ、わかりました」
アイドルとプロデューサー。そこに拒む理由はない。なぜかつきりとした胸の痛みを感じながら平静とそう伝えれば、朔間先輩は目を細め「誰にも言わないでおくれ」と言葉を重ねる。悲しいかな言う相手もいないのだ。それに、事故だった可能性だって大きい。
断る理由もない私はまた首を縦に振った。つきり、つきり。そのたびになぜか、胸の奥が締め付けられる。わからないその痛みに髪の毛を拭く手を止めれば、彼はようやくそこで微笑んで「いい子じゃ」と口にした。
しかし私は決して『いい子』にはなれなかった。今までただ漠然と『よくしてくれる先輩』『すごい先輩』と感じていた彼のことを、ぼんやりと思い浮かべることが増えたのだ。例えば階下に見える緑色のジャージに彼の姿を探したりだとか(まあ滅多に授業に出てこないので、見つかりっこないのだけれど)風に乗って聞こえてくる軽音部の音楽に、彼のかけらを探してみたりだとか(それでも聞こえてくるのは大抵晃牙くんの怒鳴り声で、悔しくなって「とても聞こえます」なんて伝えてみれば、なぜか晃牙くんはしたり顔を浮かべていた)。
『先輩』から『朔間先輩』へと成り代わるたび、頭の中でまるで映画のワンシーンのように、あの出来事がフラッシュバックする。
忘れろって、言われたのに。
忘れようとするたび、私の脳裏に彼がこびりつく。あの日の空気が蘇る。
「嬢ちゃん」
「朔間先輩」
一人教室で日誌を書いていたら、足音が聞こえた。足音の主である朔間先輩は興味深そうに、二三教室を見回すと、嬉しそうに机の間を縫いながらこちらへと歩いてくる。私は日誌を書く手を止めて、彼を見上げた。
あの人同じように、外では雨が降り続いていた。漂う湿気が空気を鈍く、重くする。灰色に広がった雲が、街をモノトーンに染めていく。窓ガラスに映っているのは、私と先輩だけ。白熱灯がやけに白々しく教室を照らしていた。
「ちゃあんと日誌を書いて、偉いのう。いい子じゃ」
先輩はそう言って椅子を引き、目の前に座った。体重をかければぎしりと音が鳴る。私の机の上に肘をついて、手に顎を乗せた先輩は微笑みながら日誌を見下ろしている。緩やかに彼の髪の毛が揺れる。綺麗に弧を描く彼の唇に、いい子じゃない、と私は思う。
だって忘れられないのだ、あの日のことを。
一時たりとも離れないのだ、あの日のことは。
それでも彼の前ではいい子でいようと、私は「そうでしょう?」と白々しく微笑んで見せた。