息をのむ音が聞こえた。なんとなく、そうだろうな、と思っていたから別に驚きはしない。それよりもこの無様な姿を見られるほうが大変だから、私はできるだけ身を小さく縮めながら「出来れば、出て行って」とそう、口にする。自分の唇から放たれるその言葉は随分と冷徹で、ああ切羽詰まったらこんな声色になるのか、なんてぼんやりと考えていたら、訪問者は出ていくどころか戸惑いながらもこちらへと近づいてくる。
徐々に大きくなる足音。「出てって」と再び放つ不躾な言葉にも怒ることなく、確かにこちらへと歩み寄ってくる。そろそろと顔を上げれば訪問者――アドニスくんはこちらを見下ろし――黙って近くの椅子を引いた。そして私に背を向ける形で腰を下ろし、じっと、誰も居ない廊下側を見やる。
開け放たれた窓の向こうから、元気な練習の声が響いている。指先に力を入れれば、持っていた訂正ばかりの企画書が、かさりと悲鳴を上げた。
「姉たちも」
そよぐ風に乗って、彼の声が聞こえる。視線だけそちらへと向ければ、彼の大きな背が目に入った。アドニスくんは決して振り返るそぶりも見せずに、ただ一点、廊下を見つめている。
「泣けば、同じことを言っていた。しかし側にいなければ、慰められないだろう?」
そこまで言うと、彼はようやくこちらを向いた。交わる視線に息を吸えば、ぐずりと鼻が水音を混じらせる。「慰めてほしくない」なんて可愛げのない扁桃に、アドニスくんは幾度か目を瞬かせる。そのたび彼の長いまつげが揺れ、そして優しく目が細められた。
「そうか」
朗らかなその微笑みを睨み付ければ、アドニスくんはゆっくりと立ち上がる。たおやかな静寂に椅子の軋みが響き、そうして彼が机へと椅子を押戻す音も聞こえる。
「でも、俺は慰めたいんだ」
まるで視線を合わせるように、アドニスくんは私の前にしゃがみ込んだ。今度は私が目を瞬かせれば、瞳を覆っていた涙がまぶたに押され、ぽろりと流れる。アドニスくんは器用に指先でそれを拭い
「一人で泣くと、もっと悲しくなるだろう?」
なんて、笑った。「大きなお世話です」と二つ返事で返す私にやはり彼は笑って「そうか」となぜか嬉しそうに、大きなその手で頭を何度もなでてくれた。