花火が咲いた。
濃紺の空に鮮やかに。大きな音を上げながら、彩り豊かな花が咲き、人の歓声と共に光を落とす。
吸い込まれそうな一瞬に私は思わず声を上げた。上げたがすぐに、次の花火の轟音にかき消されてしまう。
合図のようなか細い音に目の前の人の頭たちが上を向く。同じ物を見て、同じような声を上げて、同じ風に包まれる。夏の湿気た重い空気に混じり、火薬の匂いがする。夏の匂いだと、私は思った。
体中を伝うような鈍く大きな音に鉄虎くんを見ると、彼も丁度こちらを見ていたようで、目が合ってしまった。へらりと笑って「みた? 今の」と夜空に指を差すと、ドン、とまた地響きのような音を轟かせて大輪が咲く。鉄虎くんはじいと私を見つめながら「綺麗ッスよね」と口を開く。目を瞬かせ、そうだよね、と同意を返す間にも、ドン、とまた花火は咲き誇る。その光の軌跡を追うように夜空へと目線を移して「そうだよね、綺麗だねえ」と腕を下ろせば「……綺麗ッスよ」と彼は言葉を繰り返した。
この花火大会に誘い出してくれたのは、他でもない鉄虎くんだった。この時期に花火が打ち上がることは知っていて、河川敷からよく見えることも知識としては持っていたが、足を伸ばしたことは一度もなかった。興味がないわけではない。それに今年は――正確には今年も――学院の仕事ばかりでてんてこ舞いだったから、心の底から、休息を欲していた。そして過ぎていく夏をとても惜しいと感じていた。
「私でいいの?」
そう首を傾げれば、鉄虎くんは少し困ったように目線を逸らして「姉御がいいんです」とか細い声で呟いた。随分とまあお世辞がうまくなって。彼の胸に垂れ下がる青ネクタイを見て、一年前の元気いっぱい無茶いっぱいだった彼の姿を思い浮かべる。他のユニットよりも一年早く看板を背負っているから成長が早いのだろうか。それにしたってこんなしおらしくお世辞を言うようになったなんて。
くすぐったい気持ちでくすりと笑えば、鉄虎くんは拗ねたように唇をとがらせ「本当ッスよ」と口にする。
「うん、ありがと。折角だから行こうかな?」
「本当ッスか?!」
「本当本当。誘い出してくれてありがと。やっと夏らしいことが出来るよ」
私がそう苦笑すれば、鉄虎くんが私の周りにある布きれを見て眉を寄せる。切れ端を持ち上げて「姉御、また仕事増やしたんッスか」と苦言を呈すので、慌てて「自分から増やしたわけじゃないよ」と首を横に振った。
三年生になり、プロデュース科が正式に設けられてから、今までの仕事のやり方が格段に変わった。人数が増えたからこそできる分業。そして一人で背負っていたことも今では数人、果ては数十人単位で行うことが出来るようになったため、一人あたりの負担は格段に軽くなった。
が、しかし、人数が増えると比例するように問題は増えるもので、去年現れなかった『請け負ったけど間に合いそうにないです助けてください』という声が、夏を過ぎた辺りからちらほらと流れてくるようになった。作業に慣れてきたのと、力量が測れていないから起こるその声の受け皿は当然の如く、ここ。
というわけで、仕事を抱える日々はどうにもこうにも続きそうで、今もこうやって、衣装の繕いを請け負っている。
布に針を通しながら「でもまあ鬼龍先輩に教えて貰った技術がこうして役に立ってるし」と笑えば、鉄虎くんはなおも不機嫌そうに「でも無茶してることには変わりないッスよね」と言葉を強める。昔は鬼龍先輩の名前を出しておけばご機嫌だったのに、小癪な。
「まあ、姉御がいいならいいッスけど……今日の夜、七時に駅前でどうですか?」
「わかった、その頃には終わるとは思うし」
「ん、じゃあ約束ッス、楽しみにしてます!」
そう言うと鉄虎くんは「無理しないでくださいね!」とだけ言葉を残し教室から出て行った。
ううん、嬉しいけど小生意気。でも可愛い。
弟に似たそのかわいらしさに頬を緩めて、そして私はまた布に向き合う。
時計の針の音に合わせて、一針一針丁寧に縫っていく。この衣装がアイドルを守ってくれますように。そう想いを込めて。
気がつけば空が茜色に染まっていた。私は早々に仕事を切り上げて、帰宅し、私服に着替える。流石に制服姿では夜で歩けないし。それに花火大会だから。お出かけ用の可愛らしいワンピースとアクセサリを身に付け、鞄をひったくりそのまま集合場所へ。私がたどり着く頃には既に着いていた鉄虎くんは、私服姿で駅の柱にもたれかかり携帯をいじっていた。
「鉄虎くん」
私を見るなり「姉御」と彼は声を弾ませる。が、一歩足を踏み出したと思えば、こちらを見てしどろもどろに視線を彷徨わせた。露骨な戸惑いにそんなに変な服装だったかと服を見下ろす。鉄虎くんはおずおずとこちらに歩み寄って、ぼそりと「……私服だと、思わなくて」と呟いた。
「流石に制服はまずいかなって……駄目だった?」
「そそそ、そんなことないッス、その、新鮮で」
「変じゃない?」
「変じゃないです!」
やたらと強調されたその言葉に思わず笑みを零せば、鉄虎くんは恥ずかしそうに周囲を見渡して、そして照れくさそうに目を逸らす。そして「行きますよ」と言い置いて歩き出してしまう彼の背中を追って、私も歩き出した。
もうすぐ花火が始まるからか、河川敷は人でごった返していた。人混みから鉄虎くんを守るため、彼の一歩先を先導するように歩けば、鉄虎くんが「姉御! 俺に! 気を遣わせてください!」と声を上げる。人前で『アイドル』なんて単語を使えないから「大切な後輩なんだからだめだよ。ちゃんと着いてきてね」と振り返り、近くに彼がいることを確認する。
鉄虎くんは不服そうにこちらを見たが、文句を言う前に人の波が横から前からどんどんと流れる。
不意に背中の服が引っ張られる感覚がした。近くなる体温、触れる肌。鉄虎くんははぐれないように私にくっつきながら「……はぐれないように、します」と気まずそうに呟いた。
やり過ぎなのではないかと思ったけれど、頼られていると思えばなんとなく誇らしかった。私は笑い「任せといて」と彼に向かって大きく頷いた。
花火が始まり、夜が流れ、星が瞬き、花が開く。
様々な色で染められた夜空を見上げていれば、ふと鉄虎くんが私を呼んだ。普段は姉御なのに、珍しく名前で。
驚いて彼を見れば、彼は空っぽの手のひらを揺らし、小さな声で「はぐれないように、手を繋ぎたいッス」と呟く。辺りには沢山の人はいるが、花火が始まったのでもう暫く人が動くこともないだろう。
だからきっと、はぐれることもないはずなのに、彼の真剣な目が、紅茶色の瞳が真っ直ぐ私を見下ろしていたから「はい」と私は返事をしていた。驚くほど早く、彼は私の手を取る。はぐれないように繋ぐそれではなく、指と指の間にするりと通り抜けるそれに、小さく息を飲む。
あれ、いま、なにを。
ぴたりとくっつく手のひらに、鉄虎くんは夜空を見上げる。ドンとまた、花が咲く。その音を聞きながら、私は鉄虎くんをじっと見つめていた。
「……そんなに見つめられると、照れるッスよ」
彼の一言に「ご、ごめん!」と謝りすぐに視線を夜空へと戻す。光が落ちる。嘘のように暗い夜空が広がり、そして音と共にまた花が開く。
「綺麗ッスね」
鉄虎くんの声が聞こえる。夜空から目を離して彼のほうへと目をやれば、鉄虎くんもじっとこちらを見つめて微笑んでいた。屈託のない、一年前の笑顔とは違う、私の知らない、笑顔。
「……それは」
花火、だよね。なんて、聞けるはずなくて言葉を途切れさせたまま、私は口を閉じた。
花火が終わり、止まっていた人々が動き出す。綺麗だったねと口々に灯る喜びを空気に溶かしながら、皆河川敷を後にする。私と鉄虎くんは手を繋いだまま、じっとその場に立ちすくんでいて、次第に視界が開け、川がよく見えるようになってもなお、動き出すことはなかった。
人々の声が遠ざかる頃、りいんりいんと鈴虫の音がした。そうか、もうすぐ秋が来るのかと、静まりかえった夜空を見上げる。花火の瞬きで気がつかなかったけれど、今日は星がとても綺麗だ。吹き抜ける風はまだ重く暑いけれど、秋の足音はもうそこまで迫っている。
鉄虎くんは繋いだ手を強く握って「……来年も、また、一緒に」と口を開いた。らいねん。私は心の中で言葉を転がす。来年、私はこの学院には居ない。大学へ進学予定ではあるが、それも受かればの話で、正直来年の自分の姿が上手く想像できない。
でも、来年の彼の姿はわかる。きっと守沢先輩から継いだ炎を灯らせて、明るく人々を照らしていくのだろう。流星レッド、南雲鉄虎。はじめはなじまなかったその言葉も、今ではしっくりと、心に落ちるようになった。
「来年、か」
「来年も見ますよ、約束ッス。男に二言はないッスよ」
「私の予定もあるんですけど」
「姉御来年まで仕事抱えるつもりッスか?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ予約しておいてください。最優先で。花火、見ましょう。一緒に、また」
きゅうと手が握られる。指が手の甲に触れる。可愛い後輩ではない、弟ともまた違う。男の子の手で、ぎゅっと。跳ね上がる心臓に戸惑い彼を見上げれば、一年前よりも随分高い位置に顔があって驚いた。精悍な表情でじっとこちらをみていた鉄虎くんが「約束」と口にする。つられて口にする「やくそく」の言葉に、彼は満足そうに笑み「約束、です」と強く手を握った。
風が吹いた。冷たい、秋が薫る風だった。
何かが変わる、予感がした。