DropFrame

王手まではあと一手

 軽々しく口に出していい言葉ではないことは知っているけれど、それでも口に出さないと伝わらない想いはある。影でいくら努力したって、男らしく振る舞ったって、姉御にとって俺は『弟』と同じようにしか見てもらえない。年上なら、いやせめて同じ年ならば。いいや、彼女よりもぐんと身長が高くて、頼り甲斐があればもしかしたら年下でも望みはあるかもしれない。
 くるりとシャーペンを回してため息を吐けば、目の前で漫画雑誌を気怠そうにめくっていた翠くんは「呼びつけたくせにほんと遅いよね」とページに目を落としながらぼやく。がらんどうな教室には俺と翠くんの二人きり。流星隊のミーティングをするからと指定された教室に足を運んだはいいけれど、守沢先輩はまだ来ていないようだ。先ほど届いたメールを見るに、仙石くんはどうやらホームルームが長引いているようで当分かかりそうだ。深海先輩はきっと噴水だろうか。この教室から見えないからわからないけれど、きっと多分、そうだ。

 秋が香る窓の向こうはひゅんひゅんと音を奏でながら風が吹いていた。熟れた果実のように真っ赤にまるまった木の葉が風にあおられて時折顔を出す。背もたれを抱きかかえる形で椅子に座りながら、翠くんが座っている席の机に両手を置き顔を埋めれば「来たら起こすよ」とページをめくる音とともに彼の声が落ちる。ありがとうでもよろしくでもなく「翠くんが羨ましいッス」と声に出せば「ん?」と疑問に満ちた彼の声が聞こえた。顔を上げれば、翠くんは眉を寄せて「テストの点悪かったの気にしてるの?」と顔を傾ける。お昼に帰ってきたこてんぱんの点数を思い出してーーだけど翠くんと3点しか変わらなかった!……まあ10点満点だけどーー唇をとがらせる。

「違うッス、身長の話ッス……俺も背が高ければ」
「高くても得することないと思うけど」
「そんなことないッスよ、少なくとも」

 姉御には『男』としてみてもらえるかもしれない。そんな言葉を口に出すわけにもいかず飲み込めば、翠くんは怪訝そうに顔を歪めて「一体なんなの?」と漫画雑誌を閉じる。あけすけに伝えるのが恥ずかしくて「男らしくなりたいんッスよ」とだけ伝えれば、一つため息を漏らし「俺よりも鉄虎くんの方が男らしいと思うけど」とまた漫画雑誌を開く。どうやら他愛もない雑談だと気がついたらしい。

「でも同じくらいの身長よりはずっと高い方が男としてみてもらえるじゃないッスか」
「誰のこと言ってるの……?」
「い、いやその例えばッスよ?ほら背が高い方が女の子にモテるって言うじゃないッスか!」
「ふうん」

 さして興味もなさそうに翠くんはページをめくる。お目当ての漫画があったらしい。少しだけ前のめりになって漫画を読み始めた彼に「翠くんは格好いいからわからないと思うけど」と皮肉を言えば「そうだね」と上の空な言葉が返ってきた。先ほどよりも随分と穏やかな速度でめくられるページに熱心な視線。これ以上なにも言っても仕方ないなと、先ほど机の上に転がしたシャーペンをもう一度握りしめて指先でくるりと回す。回しながら、いつにも増して猫背な翠くんを見つめる。
 前のめりになっても翠くんはやはり大きい。いつも猫背だからーーそれでも身長は高いーー意識はしないけれど、彼がステージに立ち熱を吸収してボルテージを上げ、ようやく背筋を伸ばして歌い出したときの存在感たるや。アイドルとしても男の魅力としても、あとちょっぴり勉強も、負けていることは悔しい。翠くんみたいになれたらいいな。そんな女々しい言葉は心の端にこびりついてどうにも取れない。

「……翠くんになれたら姉御も男扱いしてくれるんッスかね」

 てっきり漫画に夢中だと思ってひとりごちた言葉。くるりと回るシャーペンを目で追いながらため息を吐けば「俺だって男扱いされてないよ?されたいとも思ってないけど」とさして興味もなさそうな返事がきた。翠くんの方を見れば、どうやらお目当ての漫画は終わったらしい。また流し読みの速度でページをめくりながら「男扱いってそういうことでしょ、結構面倒くさくない?」と辟易したように声を吐き出す。本人にはそのつもりはないだろうけれど、多少自慢走った言葉に「俺はそういう経験ないからわかんないッスけど!」と少しだけ強めに言葉をおいて「……翠くんも姉御に男扱いされないんッスか?」と今度は小声で聞いてみた。翠くんは読んでいたページから目を話こちらをじいと見つめて「ないよ」と一言。

「だってあの人、落ち込んでたらすぐ頭撫でてくるでしょ?それって男として意識してる相手にしなくない?」
「まあ確かにそうッスね……てことは身長はあんまり関係ないんッスかね、やっぱり年齢」
「鉄虎くんは転校生さんに男扱いしてほしいんだ」

 読み終えたのか、分厚い漫画雑誌を閉じると翠くんは携帯の電源をつける。まだ来ていない着信に一つため息を吐いて「呼び出したくせに連絡もよこさないとか」と苛立たしい言葉を吐いた。

「その、まあ俺も男なので、そういう風にみて欲しいじゃないッスか」
「鉄虎くん転校生さんのこと好きだもんね」
「べべべつに!姉御のこと尊敬してますけど、その好きってわけじゃ」
「好きじゃないの?」
「うっ……」

 漫画雑誌をカバンに片付けて、翠くんはそこでようやくこちらを見た。目を幾度か瞬かせ、そしてこらえきれないようにひとつ呼吸混じりの笑をこぼした。言葉が続かないのがそんな面白いのか、憤慨しながら「好きッスよ!悪いッスか!」と立ち上がり声を荒らげれば翠くんは目を丸め、そして珍しく真剣にじっと俺を見上げた。

「鉄虎くん、転校生さんに男として意識してもらえる確実な方法、ひとつ教えようか」
「そ、そんなものがあるんッスか?!是非教えて欲しいッス!」
「今の言葉、振り返ってもう一回言ってみるといいよ」

 二人だけしかいないはずだったのに、背後から本当に小さな声で「わっ」と、声がした。慌てて振り返ると、気まずそうに笑顔を貼り付けた姉御がその場に立っていて、いや、逃げ腰で、数歩後ずさりながらこちらをじっと見ていた。

「あああ、姉御?!い、いつから!」
「き、聞こうと思ってたわけじゃないの!その、えっと、守沢先輩が深海先輩を探すのに手間取ってるって伝えに来ただけで、そ、その、伝えたから!じゃあ!」

 脱兎のごとく走り去る彼女の背中を呆然と眺めていると「おいかけなくていいの?」と翠くんの声が聞こえた。その言葉にはじかれるように教室を駆け抜けて左右を見渡す。ちょうど左の端の階段の方で、ひらりとスカートの端が揺れるのが見えた気がした。迷いなく、俺は廊下を蹴って走り出した。