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夏がよんでる

 空気にこびりつくような残暑だった。暦はもう秋を迎えていて、本来ならば冬に向けての長雨でも降ってもいいはずなのに、今年の夏はなぜか長引くようにずっとずっと暑かった。喉の渇きの赴くままに自販機で炭酸飲料を買って開ければ、勢いのよい音と共に小さなしぶきが指にかかる。鼻元へと指を寄せてそれを嗅げば、夏に似た、爽やかでどこかベタつく匂いがした。はしたないとわかりつつもぺろりとそれをなめて、近くにあるベンチに腰を下ろす。しっかりと蓋を開けて炭酸飲料をあおれば、ぷちぷちとした泡が喉元を軽快に通り過ぎた。

「姉御も休みッスか」
「……鉄虎くん」

 声がした、と振り返れば、真っ赤な上着を肩にかけた鉄虎くんがベンチの奥からひょこりと顔を出している。姉御も、という言葉通り、彼はまだ冷え冷えとしたドリンクを片手に掴んでベンチの背もたれに肘をついている。「休憩中なの?」と尋ねれば彼は相変わらずの人懐っこい笑顔を浮かべて頷く。そうして「隣いいですか」と彼が言うので、私は素直に頷いた。弾けるような笑顔を浮かべて彼は嬉しそうにベンチの輪郭を沿うようにまわり、私の隣に歩み寄ると、立ち止まる。困ったような表情でおもむろに自分の腕に鼻先を当てて鉄虎くんはぼそりと呟いた。

「……俺、臭くないッスかね」

 眉を寄せる彼に「私も汗臭いかもしれないからお互い様だね」と笑えば、鉄虎くんは破顔して「一緒ッスね」とベンチに腰を下ろす。ちいさな風がそよぎ、彼の髪が揺れる。太陽を十分に吸い込んだ鉄虎くんの香りは、まだまだ夏の香りがした。

「いやあまだ暑いッスね!もう10月ッスよ」
「そうだねえ、まだ夏な気がする」
「もうそろそろ秋が来てもおかしくないんですけどね」
「秋かあ」

 まだまだ青々と広がる空を見上げる。もう入道雲を見なくなって久しいけれど、それでもやはり、肌をかすめる風は暑い。夜になれば幾分気温は和らぎそれこそ秋の音が聞こえてくるけれど、お昼はまだまだ夏の面影が色濃く残っている。

 ジメジメとした空気の中ジュースを傾ければ、ぱちぱちと舌の上で弾けた。視線を感じて横をみれば、鉄虎くんがじいとこちらをみつめている。どうしたのと首をかしげれば、彼は慌てて目線を外して誤魔化すように笑った。そして隊長の証である上着をベンチにかけてぼそりと「秋が来れば、冬なんでしょうね」と呟いた。当たり前の言葉に「そうだねえ」と特に意味も深く感じずにそう答えれば、鉄虎くんはまた下手くそな笑顔を浮かべて「あっという間なんッスよねえ」と言った。
 なんとなく聞き覚えのある言葉に、なんだったか、と考えながらまたペットボトルを傾ける。ぱちぱちと喉元をジュースが駆け巡る。秋が来れば、冬。きっとあっという間……一体、なんだったっけ。

 ぱちり、と炭酸が弾けた。同時に弾けるように、脳裏に懐かしい映像が流れる。
 半袖の制服。屋上のフェンスにもたれながら随分と小さい入道雲を誰かと見ていた。下からは楽しそうな声が聞こえるのにそこだけ別世界のように静かで、ただ去り行く夏の残骸を掻き抱きながら、呟いたのだ。
『秋が来ればきっとすぐに冬が来るんでしょうね』
 そう言って笑ったのは私だ。夏の暑さが和らいで、季節の移ろいを感じて、急に物悲しく感じてしまった私の言葉だ。

 半分ほどなくなったジュースの蓋を閉めれば、鉄虎くんは険しい横顔で炭酸飲料を流し込んでいた。ふう、と甘い吐息を吐き出して彼も同じように容器の蓋を閉めた。1年前よりもずっと精悍になった横顔を見つめ「寂しい?」と聞いてみれば、鉄虎くんは面食らったように目を瞬かせ、そして照れ笑いを浮かべた。

「寂しいに決まってるじゃないですか」

 素直にそう言った鉄虎くんは「姉御がいなくなるなんて考えただけでぞわっとしますよ」とからから笑った。その返答を聞きながら、1年前の私は素直に寂しいなんて言えなかったな、と肩を竦める。竦めつつも「卒業しても会おうとすれば会えるよ」とほぼ無意識に、あの頃の先輩と同じ言葉をなぞっていた自分に驚く。無責任な響きに慌てて口を噤めば、鉄虎くんは眉尻を下げて笑い「そうッスよねえ、死ぬわけじゃないですし」と笑った。

 あの頃の三年生が卒業してもうすぐ半年が経つ。「もう会えないんでしょうか」と尋ねれば口を揃えて「また会えるよ」と言ってくれた先輩たちとは、あれから一度も会えてはいない。わかってはいたし、落胆もしていない。
 だからきっと鉄虎くんと私もそうなるだろうと思い、だけど一縷の希望を込めて「会えたらいいね」と俯き自嘲するように笑えば、数度、肩を叩かれた。彼の方をみればぷすりと刺さる指。古典的ないたずらを仕掛けた鉄虎くんは悪びれずに笑って、さらに深く指を頬に押し込んだ。

「姉御が寂しがるといけないんで、会いに行くから待っててほしいッス」
「さ、寂しくなんてないです!」
「じゃあ俺が寂しいんで、会いに行きますね」

 明瞭に笑うその顔があまりに眩しくて目を瞬かせた。あの頃、そういう風に返答できなかった今の私と違い、1年後の鉄虎くんは本当に会いに来てくれそうで、思わず口元が緩む。

「絶対会いに行くんで、着信拒否とかしたら嫌ッスよ……なに笑ってるんスか」
「いや、本当に会いに来そうだなって」
「だから会いに行くって言ってるじゃないッスか、男に二言はないッスよ!」

 裏表のない言葉にまた口角をあげれば、鉄虎くんはプリプリ怒りながら炭酸飲料を口に運ぶ。半透明のペットボトルから透けて見える太陽は、まだ当分世界を明るく照らしてくれそうだ。喉の動きに合わせて波打つそれを見ながら、少しだけ楽しい未来を夢想する。

 残暑はまだ、続きそうだ。