キーボードを叩く音と、時計の秒針だけがたゆたうこの部屋に「ただいま」と不意に声が響く。肩に乗せられた暖かな体温はゆるりと、自分の匂いをこすりつけるように動く。ただいま。キーボードを叩く手を止めて彼の言った言葉を反芻する。ただいま、なんて。ずっとここにいたくせに。彼の方に顔を向けようとしても、肩に彼の頭が載っているからそれは叶わない。学生時代から変わらない柔らかい栗毛が頬に当たってこそばゆい。シャンプーの清涼な香りが、すんと、鼻を掠めた。
「おかえり……?」
恐々とそう返すと、翠くんは肩に乗せていた頭をゆっくりと持ち上げて身を起こした。急になくなる暖かさに寂しさを感じながらようやくしっかり彼の顔をみれば、翠くんは水色の瞳を瞬かせながらじっとこちらを見ていた。学院近くにあるあの青い海をそっくりそのまま拾ってきたようなその瞳にはぽっかりと部屋着の私が浮かんでいる。端正な顔からは気怠げな表情が抜けることはなく、間違いだったか、と私は心の中で肩をすくめた。そして部屋に転がっているよくわからないーー彼曰くたまらないーーぬいぐるみを取り上げて眼前に持ち上げ「みどりくんおかえり!」と裏声を駆使して伝えてみても、反応がない。ぬいぐるみ越しに彼を見ていると作りの良い眉の間に、ああ、深いシワが幾つも。これも間違いだったか。
「……えっと?」
「もういいっスよ」
ぶっきらぼうにそう言い放って、翠くんはまた私の肩に頭を置いた。ふわり、また香りが鼻を掠める。同じシャンプーを使っているのに、翠くんの方がいい匂いがするなと彼の方に頭を寄せれば、彼は居心地のよい場所を探すようにゆるく頭を振りだしたので、思わず顔を背けてしまった。その拍子に肩も跳ね上がってしまい、翠くんは驚いたように身を離す。文句を言うでもなく、怒り出すでもなく、彼は静かに私の腕を引っ張り肩を無理やり下げさせて、頭をまた肩の上に置く。さほど無理な体勢でもないのでしばらくそのままおとなしくしていたら「もういいッスよ」と声が聞こえた。「もう肩はいいの?」と尋ねると逆立った声で「違う」と一言。じゃあ何がもういいのかと思案していると、彼はじろりとこちらを見て「頭、寄せていいっスよ」と言った。
素直に頭を寄せれば、翠くんが先ほど引っ張った腕を抱きしめるように胸へと寄せた。二の腕からどくりどくりと彼の心音が聞こえる。これではキーボードが叩けない、と利き手ではない方の手でトラックパッドを操作して書類を保存すればぎゅっと、彼の腕を抱く力が強くなった。たぐり寄せるようにノートパソコンの画面の端をつかんで閉じれば、拘束されていた腕は解かれて、肩に乗りかかっていた重みが消える。その代わり、翠くんは両手を胸に回して抱きつくと、重力の赴くままなだれ込むように床に転がった。
甘えている。お風呂後だからかゆるく跳ねる髪に顔を寄せれば、下の方から「甘えてるんですか」と少しだけ期待に満ちた声が聞こえた。「甘えてるのは翠くんのほうでしょう」と言い返せば「ちがいます、甘えてるのはそっちッスよ」と少しだけムッとした声が返ってきた。見下ろせば声と謙遜のないくらい不機嫌そうな顔がそこにはあって、思わず笑ってしまうと、翠くんはさらに深く眉を寄せた。寄せながら綺麗な瞳をこちらに向けてくるので、ずるいなあと思う。ずるいなあと思いながら「じゃあ甘えたいからもうちょっと下がっていい?」と尋ねれば翠くんはすぐに腕の力を緩めてくれた。引っかかっていた腕を彼の腕の中に通して胸によれば「ん」との小さい声とともに翠くんがぎゅうと抱きしめる。「最初っから素直に甘えてもいいんですよ」と心なしか嬉しそうに言う彼に、『素直に甘え』ざる得なかったことは黙っておこうと心の中で誓う。
「ねえ」
「なんですか」
「さっき、なんでただいまだったの?」
「秘密ッス」
「なにそれ」
翠くんは少しだけ声を弾ませながらそう言った。なんでそこで嬉しそうにするのか見当もつかないけれど、追及すれば彼の機嫌を損ねることはわかっているので黙って彼に抱かれる。きゅうきゅうと抱きしめながら、ふと、彼が思い出したように「ただいま」とまた言葉を口にする。私は彼を見上げて「おかえり?」と返せば、翠くんは目を細めて「もっとちゃんと」と口を尖らせた。怪訝に思いながらも「おかえり」と今度はしかりと返せば翠くんは表情を和らげてまた「ただいま」と繰り返した。