蒸し暑い夜だった。タイマーをかけた扇風機は止まり、夏の、鬱蒼とした暑さが部屋を満たす、蒸し暑い夜だった。暑さに強いのだろう同居人はこのサウナのような部屋でもすやすやと寝息を立てて眠っている。涼をとろうと薄手の布団を跳ね除けてみても、重く暑い空気が身体を包むだけで、一向に涼しくはならない。
冷たい水を飲もう。起き抜けの頭でそう考えた私は音を立てないようにベッドから這い出る。床へと降り立ち声を上げないように伸びをすれば、背後からのそりと布ズレの音。恐る恐る振り返れば、先程まで安眠していた同居人が眠気眼を瞬かせながら、こちらをじいと眺めているではないか。
起こしちゃった?と問おうと口を開くその前に、彼はもぞもぞと布団から這い出してベッドから降りた。立ち尽くす私の目の前に立つと、そのまま大きなあくびをひとつこぼし、こてんと、肩に顔を埋める。
「眠れないのか?」
「わ、ごめんうるさかった?」
「いや、気配が」
気配。そりゃ消せないわ。動物並みの感覚を持ち合わせる彼に肩を竦めれば、アドニスくんは顔を上げてもう一度「眠れないのか?」と言葉を繰り返す。頷けば「そうか」と力をなくした声でアドニスくんも肩を竦める。
「寝れそうになったら私も寝るから、アドニスくんは寝てなよ」
「……気になるだろう、どうした悩みがあるのか?」
「あ、いやその、そういう訳ではないんだけど」
「俺が、うるさかったりするのだろうか」
「あー、そうじゃないの、その、暑さが」
「暑さ?」
「暑さ」
アドニスくんはぱちくりと目を瞬かせ、そして目線を宙へとなげた。部屋を見渡すように、右から左へ流れる視線に「何見てるの?」と問えば「そうだな」なんて言葉が彼の口から漏れる。
「冷房をつけるか?」
「でも別にアドニスくんは暑くないでしょ?付けすぎると風邪ひいちゃうし、いいよ、適当にどうにかしとくから、寝てて」
「しかし」
「ほら、ひとりで寝れない子どもでもないでしょう、寝ててって」
私がアドニスくんの背後に回り込み背中を押すが、びくともしない。見上げれば、真っ暗な部屋に目が慣れてきたのか、先程まで朧気だったアドニスくんの顔がはっきりと見えた。まだ寝起きな顔をしているのかと思いきや、なぜだか見上げた彼の顔は嬉しそうに微笑んでいる。押すのをやめれば彼は振り返り私の両肩に手を置いた。そのまま無理やり半回転させられて寝室のドアの方へと向けられる。
「1人では眠れないんだ」
そのまま肩を押されるがまま、私はよたよたと歩き出す。ただ単に水を飲むだけのつもりだったのにどうしてこうなっちゃったんだろう。見上げた彼の嬉しそうな顔に、胸に用意していた文句の言葉がしぼんでいく。まあ、いいか、たまには。
*
水屋からグラスをひとつ取り出して冷蔵庫を開ける。小粒の氷を二三個取り出してグラスに入れれば、からん、と甲高い音が鳴った。蛇口からは夏の暑さに熱せられた、生ぬるい水が出てくる。早く冷えますようにとグラスを何度もかたむけながら、リビングのソファに埋もるアドニスくんを見た。
うつらうつら船を漕いでいるようで、首がおぼつかなく揺れているのがここからよく見える。寝付くまで傍にいてあげた方がいいのか、いやでもまた這い出たら起きてしまう。気配って、どうやって消せばいいんだろう。ぼんやりとそんなことを考えながらアドニスくんの元へと歩けば、彼は顔を上げてこちらを凝視する。
「アドニス君もお水飲む?」
「いや、いい」
隣に座ればアドニスくんが私の肩にもたれかかった。容赦なく体重をかけてくる彼に「重い重い!」と押し返すがびくともしない。あわせて聞こえるくぐもった笑い声に、なるほど確信犯かとアドニスくんを見上げれば、彼はもう一度身体を擦り寄せる。
「ねえもしかして、甘えてるの?」
その言葉にピタリと彼は止まった。そして身体を起こして不思議そうに首を傾けて「ああ」と一言。そのままソファの背もたれにもたれかかり私を見下ろす。
両手で掴んでいた水をソファ前のローテーブルに置いて、今度は私がアドニスくんにもたれ掛かる。アドニスくんは私の身体と自身の身体で挟まれた腕を抜き取ると、そのままこちらの肩を抱いて、子供をあやす様に幾度か腕を優しく叩いてくれた。
「猫が」
「ねこ?」
「犬でもそうだが、甘える時は身体をすり寄せるだろう?」
うーん、動物基準。アドニスくんらしいといえばらしいけど。くすりと笑みを零せばアドニスくんがこちらを見下ろし「お前も甘えるときは寄ってくる」としれっと言い放つ。驚き目を瞬かせていると、彼はくすくす笑い「可愛いと思う」と私の腕をさすった。
寄ってくる?私が?思い出そうにも何となく小っ恥ずかしくて黙ってアドニスくんに体重を預ける。夏の茹だるような暑さでも、くっつく温もりは嫌悪の欠片も感じないのがなんとも、現金というか。彼の腕の付け根に頭を寄せれば、またアドニスくんはぽんぽんと腕を軽く叩く。
「こうやって過ごすのも、久しぶりだな」
「うん、確かに、最近忙しかったもんね」
心地よいリズムでアドニスくんが腕を叩く。彼の言う通り最近互いの仕事が忙しいあまり、なかなかこうして顔を突き合わす回数は少なかった。とはいえ寝室は同じなので、互いの息災は分かっていたし、毎日、少なくとも数分は言葉を交わすのでそれほど寂しさに囚われることもなかった。しかしこうしてくっついてみると、ああ久しぶりの安心感というか、温もりというか。思わず頬が緩んでしまう心地良さに私は一度アドニスくんの胸に頭を寄せる。寄せて、はたりと気がつく。
「……擦り寄るね?」
「擦り寄るだろう?」
「うわ恥ずかしい自覚しちゃった」
身をアドニスくんから離すも、腕を叩いていた彼の左腕がすぐさま引き寄せ元の位置に戻る。照れ恥ずかしくてアドニスくんの胸でじっとしていると、また彼は穏やかに私の腕を叩く。秒針より穏やかに、優しい速度で。
先程まで暑苦しかったのに、アドニスくんの隣は心地よかった。勿論薄い掛け布団よりもずっとずっと暑いし、くっつかない方が涼しいとわかってはいるものの、離れがたい。
からん、と氷が揺れる。結露したグラスから水滴が一筋、テーブルに落ちる。手を伸ばして飲むのも億劫で、アドニスくんの手のリズムに揺られていると、ぴたりと手が止まった。
「まだ暑いか?」
「うんでも、少し心地いいかも」
「眠れそうか?」
「うん、なんだかここで眠っちゃいそう」
「安心しろ、ここで眠っても布団まで運んでやる」
また彼の手が穏やかに腕を叩く。リズムに乗って体からゆっくり力が抜けていくのを感じた。あれだけ鬱陶しく感じていた暑さも感じない。緩やかな眠気に誘われて目を閉じればアドニスくんの香りがふと、鼻腔に届く。
唇に柔らかな感触。からんと氷の音。おやすみという優しい声。どこからが夢でどこまでが現実なのだろうか。明日アドニスくんに聞いてみよう。遠くに夏の夜の空気を感じながら、私は夢へと落ちていく。