DropFrame

夜には狼がでるんだよ

 夜が満ちていた。日の高い頃には陽光を惜しみなく誘い込む大きな窓も、夜の間はカーテンの裏で静かに佇んでいる。厚い紅のそれを少し翻せば、格子の向こうに濃紺の空が広がっていた。穴の開いたようにぽっかりと月、散らばる星々、その傍らを呑気に泳ぐ雲。午後十一時を少し回った時計は規則正しくリズムを刻みながら時の流れを教えてくれる。こちこち、こちこち。その音に耳をそばだてながらカーテンから指を離して、私はすっかり寝こけている衣更くんを見下ろした。

 この部屋、生徒会室にある一際豪華な椅子の上で、部屋の主は居眠りをしていた。そもそも『居眠り』と言っていいのか。この時間なら『睡眠』になるのかもしれない。でも彼が寝こけ始めた頃はまだ『居眠り』の時間だったはず。数時間前、まだ空が茜色に染まっていた頃「少しだけ寝かせてくれ」と死にそうな声をあげて眠りについた衣更くんはそのままぐっすり、この時間まで夢の中。

 規則正しい寝息をBGMに私は華奢な椅子を持ち上げて彼の隣に座る。偉そうな椅子の隣に座っているだけで、なんだか偉くなった気分になるから不思議だ。普段衣更くんはこんな景色を見ているのか。彼に肩並べて生徒会長の机に頬杖を着けば、横でううんと唸る声。「朝ですよ」と小声で嘘をついたら彼は小さく唸って、ふん、と言葉ともならない音を漏らして、また寝息を立てだした。
 よく磨かれた机に、衣更くんの顔が映る。私も頬を机にくっつけて、衣更くんの寝顔を眺める。彼が息を吸うたび吐くたび、ゆるりとまつ毛が揺れる。

「衣更くん」

 私の呼びかけに彼は寝息を返すだけ。時計の秒針と交じりつつ漏れる彼の音。恐る恐る手を伸ばして衣更くんの後頭部に触れると、彼は、うん、と小さく音を漏らすだけだった。私は優しく、起こさないように、彼の頭に手を滑らせる。

「衣更くん、いつもお疲れ様、よく頑張ってるね」

 三年生になって、生徒会長になって、二年生の頃よりも格段と忙しくなった衣更くん。眉に皺を寄せることが多くなった衣更くん。でも文句を言わずに一つ一つ、仕事をちゃんとこなして、さらには困っている人を助けてしまったが故に、さらに多忙になる衣更くん。プロデュース科が正式に新設されて、あの頃よりも私とTrickstarのつながりは薄れてしまったけれど、ちゃんと見てるよ。頑張っている君を、ちゃんと、見てるよ。

「あんまり無理しないでね、私はちゃんと見てるから」

 彼の頭から手を離して、じっと寝顔を見つめる。ほんの小さな、鈴の音にも満たないくらいのかすかな声で「真緒くん」と口にすれば、寝ていると思っていた彼の口からーー笑いが零れた。

 驚いて勢いよく飛びのいてしまったので、椅子が大きな音を立てて床に転がった。投げ出されるように私も床に思い切り尻餅を打った。痛い、本当に痛い。涙目になりながら先ほどまで座っていた場所を見上げれば、衣更くんは寝ていたのが嘘のように機敏に立ち上がり幾度か目を瞬かせ、そして呆れたように眉に皺を寄せた。

「お前さあ……」
「だ、だって起きてるって!言わなかった!」
「わるかったよ、最初は寝てたんだけど、あんな顔が近くにある状況で起きれねえというか……」
「どこから起きてたの?!」
「んー?」

 誤魔化すように声を漏らして、衣更くんは私の隣に腰を下ろした。乱れたスカートを整えながら私も床に座り直す。衣更くんは私を見ると眉を下げて、そして閉じきったカーテンの裾を指先でつまんで、捲った。そして空高く輝く星々を見上げながら「お前がこうして外眺めてたあたりかな?」と言って笑った。気恥ずかしさに彼の腕を叩けば、衣更くんはやはりけらけらと笑ってカーテンから手を離す。

「でももう夜か、随分と寝ちゃったな」
「ぐっすり寝てたよ、ねえ最近ちゃんと寝てる?大丈夫?」
「まさかお前に心配されるとはな、1年前は立場が逆だったのに」
「じゃあ衣更くんが去年1年心配してくれた分、今年私が心配するよ」
「違うだろ」

 首を傾げる私に彼は悪戯に笑う。そして人差し指を自分の口元に当てて、1音1音確かめるように彼は「真、緒」と言って、床に投げ出していた私の手の甲に、自分の手のひらを重ねた。

「真緒くん、だろ?」
「ーーそ、そこ、も、きこえて、たの!!」
「そこも聞こえてました、し、もう一回聞かせてほしいんだけどな」

 重ねられた指の隙間に、彼の指がするりと通る。そのまま手を一回、二回、握られて、握られるたびに心臓がひとつ、ふたつ、大きく高鳴った。普段生徒会長として真面目に働いている顔はどこへやった、Trickstarとして無邪気に笑っている顔は一体どこへ行ってしまったんだ。見たことのない彼の試すような笑顔に、私は視線を床に投げる。

「ほら」

 彼がまた手を握る。心臓が掴まれるようにどくりと跳ねる。恐る恐る顔を上げれば、彼はやはり大人びた笑顔を浮かべて、じいとこちらに視線を投げていた。観念して、まるで蚊の鳴くような声で「真緒くん」と紡ぐと「よくできました」という声とともに撫でられる、頭。

 夜は満ちる。規則正しい音を立てながら、濃く、深く。新しい彼の顔を暴いてしまったような気がして名前を呼べば、真緒くんは綺麗に笑いながら、私の頭を撫で続けた。